Scribble at 2024-03-07 08:29:15 Last modified: unmodified
哲学に社会的な責任というのは、本来はないと思っている。しかし、哲学にまつわる議論や教育や啓発という営みが他人とのやりとりであるからには、擬制としての責任は設定してもよいし、またそうすべきでもあろう。というわけで、哲学には何らかの成果が期待されても良いわけである。もちろん、その期待が擬制として間違っている場合もあるわけだが、たいていにおいて哲学に何か期待する側(たとえば科学哲学には自然科学のプロパーが何かを期待したり、あるいは逆に何も期待しないという態度なり評価で関与することもあろう)の錯誤や偏見を非難したり批判したところで、あまり建設的な成果は得られない。寧ろ、そういう間違った(と哲学に従事する側が考える)期待をさせてしまう理由は何であるかを検討することによって、そうした間違いの大多数の理由は、哲学に取り組んでいる側の未熟で間違った責任の取り方にあるということが分かるはずである。その実例が、まさに大学教育であったり、通俗本の編集と出版であり、色々なところで開催されている哲学や思想を騙るイベントなのだ。もちろんだが、「ケア」と称して末期がんの患者に牧師と同じような気休めのおとぎ話をしている連中も含まれる(それ自体は否定しない。たいていの人は、自らの死に関してすら未熟でデタラメなことを考えて死んでいくのだ。死ぬからといって、誰もが聖人君子になったり、哲学的に正しく死んでいくなんてことはありえない)。
や、かなり前置きが長くなったが、哲学に取り組んでいる人々に多くの人が期待していることが何かあるとすれば、たとえば僕らが依存したり理解していると思っている概念を丁寧に分析したり、その適用範囲を見定めたりするといったことだろう(これを言葉の用法の話と混同している人々もいるわけだが)・・・ということで、やっと本来の話題になるわけだが、さきほど The Journal of Philosophy のバックナンバーを眺めていて、そういや "level" って誰もクリアな議論をしてないのに、たいていの哲学プロパーが使ってるんだよね。もちろん、同じことは "levels of explanation" といったような論点を眺めていても感じたことだったから、もう何十年と感じていながら、僕自身もさほどサーベイしているわけではない。でも、結局はこういう概念をいい加減に使いながら、なぜか所与のように依存してフレームワークのように扱ってしまっているせいで、馬鹿げた図像(つまり階層構造)を無批判に仮定したり想像して議論する人が絶えないわけだよね。特に通俗的な読み物において「哲学」やら「思想」を語ってる連中なんて、その典型だ。ああした「哲学ユーザ」というのは、もちろん僕らのようなシステム開発のプロの業界にもたくさんいて、CS の博士号すらもってない(僕もないが)物書きがコーディングとはとか、特定の開発言語の解説本を書いたりするわけで、昨今は高校教育の「情報」課程に入り込んで、情報技術については無知で無能な高校教員をサポートすると称して怪しげな「コーディング教育」とか「プログラミング教育」を実施していたりする。
かようにして、この国では知識や学問の習得とか勉学のステップなり階層としては初等的な段階にあたる学校教育に始まって、その行く手にあるというわけではないが、或る意味では「上位のステージ」だと思われている専門的な議論においても、前者はデタラメな出入り業者が教育現場を惑わせており、そして後者は「元ゲーム作家」だの「元システムエンジニア」だのを語る人々が、何十年前かに流行したポスト・モダンを標榜する人々と同じく、今度は IT 関連の用語を並べて立ててスタイリッシュな妄想へと若者を導いているというのが実状だろう。