Scribble at 2020-06-12 12:40:45 Last modified: 2020-06-12 13:15:15
その昔、もう30年くらい前になるが、神田神保町にあった『デジタルネットワーク株式会社』という小さな新興出版社で『月刊CDay』という CD カタログの雑誌を発行する仕事に従事していた。プロフィールにも書いているとおり、高校を出てから大学へ行かずに東京で働きながら勉強すればいいと思っていたので、自由に出退勤できる編集者の働き方がちょうどいいと思ったからだ。当時はバブルの真っただ中で、高校を出たばかりでも簡単に就職できたし、それこそ就職活動が始まる時期には、自宅の玄関に段ボールごと就職雑誌の特別号とか企業からのパンフレットの山が届いて辟易したこともある。
もちろん編集の仕事の経験はなかったため、色々と教えてもらいながらアルバイトから初めて契約社員となり、創刊号から・・・終刊号まで携わってきた。なんだかんだ言っても、編集長と副編を除けば僕が最初から最後までいた編集部員なのである。もちろん、何度も言うが当時はバブルの真っただ中で、待遇が良ければホイホイと転職しても次が見つからないというリスクがなかった時代である。最初にいた何人かの編集者は数か月でいなくなり、後から大学生のバイトが何人か入ってきたり、あるいはもともとカメラータ東京かポリドールの営業をしていたクラシックの人が入ってきて、僕と入れ替わりにクラシック担当の正社員になったりしたのだが、同じクラシック担当の編集部員としては馬が合わなかった記憶がある。なにせあちらは営業出身なので、朝の9時に出社するのが当然というノリで、何度か「どうして君は決まった時刻に出社しないのか」と言われたものだった。決まった時刻に出てくるくらいなら、誰が夜中まで残業なんてするものか。特に、契約社員となってからは時給だった頃と比べて収入がかなり落ちてしまったし、そもそも基本給として想定してある時間だけ出社することを求められるため(自宅でいくら仕事していて既定の原稿や版下を成果物として持ち込んでも、信用してもらえないという時代だった)、酷く働きづらくなってきていた。おまけに、高校時代は Brother のワープロを使っていたという経験から、新しく導入した PC-9801 の一太郎とかであれこれの文書を入力・印刷してくれなんて雑用まで引き受けることになり、そろそろ限界かなと思っていたところ、そもそも雑誌の売れ行きが伸びなくて会社を清算するという話が出てきたのであった。
思い出話はこれくらいにして、もともと両親もガリ版の原稿を書く下請けの仕事をしていたり、特に父親は印刷会社の製版部長になったりと、印刷や編集の仕事は、当家では僕が幼いころから覚えている範囲でも家庭内でありふれた話題だった。そういうわけで、編集の仕事を始めた頃も、すぐに上記のような級数表を手に入れて、なんでも手元の印刷物を眺めたときに「この本文(ほんもん)は何級」といった予測をしてから級数表で検証するということを日課のようにして訓練したものである。(これも結局は思い出話だが。)なお、PDF などの編集しかやっていない人なら「ポイント」しか使わないと思うが、1980年代の後半と言えば、たいていの編集者は文字の大きさをポイントではなく級数で伝えていた。とは言え、すでに当時は志村坂上の凸版印刷には電算写植やワープロが導入されていたので、色々な意味でデジタル化の波が押し寄せてきていた頃の話である。
それはそうと、どうしてこの話題をしてるかというと、実はアマゾンで「級数」(数学の方)の本を検索していると、級数シートがヒットしたからだ。