Scribble at 2020-06-28 09:40:03 Last modified: 2020-06-28 09:56:08

それぞれ専門としている分野での実績を、一定の基準で信頼している出版社というものがある。僕は普段から国内の出版社(要するに、それは著者だけの問題ではなく編集・校閲者でもあり、経営者の問題でもある)が劣化していると酷評してはいるが、もちろん、どこもかしこも幻冬舎みたいな矜持のかけらもないクズというわけではなかろう。中には、それぞれ何十年にも渡って各出版社が得意とするテーマに属する出版物を堅実に発行している会社も多々ある。考古学では吉川弘文館や雄山閣や六一書房があり、人権・差別では明石書店や現代書館があり、もちろん哲学では勁草書房や春秋社や晃洋書房や青土社や世界思想社や作品社などがある。なお、岩波やみすず書房や河出書房新社といった、他のテーマでも数多くの出版を手掛けるところは除外してある。もちろん、だからといって名前を挙げた出版社がそれらと比べて出版社として小規模というわけでもないし新興というわけでもない。それに、これらの出版社が紹介しているジャンルだけでしか名前を知られていないというわけでもない。たとえば、勁草書房は(特に英米の)哲学でも有名だが、法律でも「ダットサン」の出版社として知られている。

これらの出版社が手掛ける著作物は、単に特定のジャンルの本というだけではなく、専門書でもある。よって、初版だとおおよそ3,000部を書店や図書館へ配本してもらい (*)、それらを一定の年数で売り切れば順調という営業指標なので、増刷などで5,000部が出たら「好評」、そしてバブルの頃に10,000部を売った浅田彰の『構造と力』は、今で言えば「大ブレイク」の売れ行きと評していいのが専門書の売り上げを測るときのスケールである。よって、流行作家の小説が何十万部だとか、元大手企業のマーケターが書いた本は100万部だのというスケールと比較して、専門書や専門書を発行する出版活動の意義を論評するものではない。もとより、専門書を発行する企業は「出版社」を名乗っているのだから、やろうと思えば小説や二束三文の経営書を「出版」するだけなら造作もないことだからだ。はっきり言えば、PHP や東洋経済や日経 BP が出しているていどの自称マーケティング本(実際には、そういう本の殆どは、元いた会社の実務や研修の内容を不正競争防止法に抵触しない範囲で書いているだけの回顧録だったりする)なんて、1週間で原稿を書いて、おそらく編集者は(原稿は既に著者がデジタル・データで入稿するのだし)3日くらいで InDesign の版下データを印刷所へ回しているだろう。その程度の、僕でも自力で全ての実務を(プロのレベルで)こなせるような作業だけであれば、どこの出版社でも標準的なスキルくらいある筈だ。考古学の本を専門に扱っているから InDesign は扱えませんとか、哲学の本しか編集したことがないので経営書の本にどういう書体を使えばいいのか困りますとか、そんなバカは出版業界には(たぶん)いない。

(*) しばしば、出版物の初版点数を5,000部とか10,000部とか書いている人もいるようだが、それらは小説とかノンフィクションとか、要するに専門書ではない出版物の話である。なぜ専門書の初版点数が少ないのかと言えば、単純な話だが一般書よりも配本先が限定されていて、配本する数も限定されているからだ。つまり、小説などとは違って、専門書はコンビニエンス・ストアや駅の売店に配本されるわけがないし(新大阪のキオスクに『キャンベル生物学』が置いてある光景は想像し難い)、また専門書を置いてくれる書店でも小説とは違って何冊も在庫に抱えてもらえるわけではないからだ。もちろん印刷して製本した商品を10,000部だろうと100万部だろうと、キャッシュフローを無視して生産することはできるかもしれないが、配本できる数に制約があると、一定の数を超えては書店に引き取ってもらえないのだから、出版社の倉庫に在庫として続々と積み上がることになる。そして、それを売り切るまでは投資を回収できないので、無理なことをすると当然だが在庫を処分するまで経営が維持できなくなる出版社もある。実際には専門書なんて3,000部ですら最初から全てが配本されるわけではなく、過剰な在庫を抱えずに何年かで売り切るていどの見込みで販売しているのだ。

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