Scribble at 2026-08-09 21:41:54 Last modified: 2026-08-09 21:48:20

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Vector Theory: Epistemology, Political Economy, and Probabilistic Computation

この論文は、現代の人工知能システムにおける決定論的な記号計算から確率論的なベクトル計算へのパラダイムシフトを解釈・批判するための新たな枠組みとして「ベクトル理論(vector theory)」を提唱している。かつてのデジタル転換が離散的なビット、ブール論理、あるいは階層構造によって意味を組織化していたのに対し、大規模言語モデルや拡散モデルに代表される現代の生成 AI は、高次元のベクトル空間(コンピュータ・サイエンスでは「テンソル」と呼んでいる)、コサイン類似度、確率的多面体を通じて作動している。著者は、従来の「デジタル性」や記号論理を前提としたメディア理論や哲学では、こうした最新技術のメカニズムや影響を十分に説明できず、多くの理論的アノマリーが生じていると指摘する。

ここで、まず急いで注釈しておくべきだろう。著者は、あくまでも生成 AI のシステムにおいて扱われている特徴量の確率論的な捉え方とか、説明上の概念として扱われる意味というフレームを指定している。これは、言ってみれば AI の処理や動作原理についての認識論的な議論であって、存在論的な議論ではないという点に注意しないといけない。なぜなら、現代のコンピュータは原理的にはブール代数を基礎にして設計されたり動作しているのであって、著者らはこれを「ベクトル理論」や確率的なプロセスによって置き換えようなどと言っているわけではないからだ。コンピュータ・サイエンスの素養があれば分かると思うが、しょせんコンピュータの計算は離散的なプロセスとデータ(電気化学的な状態)によって支配されているのであって、「実数」だとか「確率」もまた、そういう原理の上で近似された電気化学的な状態(メモリに展開されている値など)を扱っているにすぎない。こういう基本的な理解がないまま、物書きや IT コンサルのごとく雑な議論をすると、たちどころに新書などで展開されている与太話のレベルに落ち込んでしまう。地方自治体の CIO といった無知無教養な連中を騙して仕事をもらうならともかく、われわれのようなネット・ベンチャーで技術や情報セキュリティを管掌しているプロのエンジニアに、そういう茶飲み話は通用しない。ましてや、僕のような科学哲学者にはなおさらだ。

ただ、この論文の概略を追ってみると、アプローチとしては理解できなくもないが、それは結局のところディープ・ラーニングなどの動作原理がコンピュータ・サイエンスの研究者にも明解に分かっていないという現状に依存した、かなり「ジャーナリスティック」と言わざるをえない議論だと思う。著者は、そのベクトル理論なるものを説明するために、たとえば AI のデータ空間に配置されているキーワードがトークン化の地平線を越えることで記号的な意味が削ぎ落とされ、高次元空間内での移動軌跡へと変換されるなどと表現しているが、俗に「AI の哲学」とか「コンピュータ・サイエンスの哲学」、あるいは「情報の哲学」と呼ばれる分野が独立した研究分野として(たぶん提唱されてから四半世紀以上は経過しているのに)確立していない理由が、こういう議論に現れていると思う。

つまり、なにやら分からないものを分からないまま、それに近い既存のキーワードを割り当ててパラフレーズするという、ポストモダンの思想家が大好きなアプローチを単に応用するだけでは、哲学的な力というものが備わらないのだ。やれドゥルーズだのウィトゲンシュタインだのと、分かりにくいことがらを単純に言い当てているように思えるという比喩や同情といった理由だけで、いま起きていることがらや対象に特別な名前をつけて弄ぶというのは、無能な社会科学者がよくやる大道芸なのだが、社会学や政治学のような雑な印象批評が業績としてまかり通るような学問では通用しても、哲学ではダメなのである。生成 AI がベクトルの拡張概念であるテンソルを使って理論として考案されたり設計・実装されているというのは、ただの事実でしかない。そして、困ったことにどうしてテンソルを使って多重のレイヤーを処理するディープ・ラーニングが、これほどの巨大な実績を続々と積み上げていくのか、実際にはコンピュータ・サイエンスの研究者もよく分かっていないという現実がある。もし分かっていれば、例の「スケーリング則」などという単純な規則性だけで AI の性能が向上していくわけはないのだ。もし AGI の達成に必要なスケールが理論的に分かっていれば、それに必要なデータ量を中学生でも分かるただの割り算で推定できてしまうことになる。そして、カーツワイルといった山師たちは、そういう短絡的な推計で、あと何年で不老不死が達成されて死なずに済むなどとホラを吹いているのだ。

更に、著者はベクトル理論について、単なる技術の記述にとどまらず、「ベクトル資本主義」なるものの構造と、それが人間知性に及ぼす影響とを診断するための批判理論として展開されるべきだという。こうなると既に哲学の議論ではなくなってしまい、左翼的な動機が見え見えの、AI を開発するために巨額の資金を集めるベンチャー企業を何らかの仕方で牽制する制度を議論することになる。もうこれでは、ベクトルなんて殆ど関係がなくなるであろう(左翼の議論によくあることだが)。

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