Scribble at 2024-06-06 13:43:19 Last modified: unmodified

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政府が月内にまとめる「新しい資本主義」実行計画改訂版案の骨子が判明した。アニメなど「コンテンツ産業」の司令塔機能の強化や、個々の企業の実態に応じた「ジョブ型」人事の導入を盛り込んだ。岸田首相が掲げる賃上げを中小・小規模企業でも定着させるため、価格転嫁の商習慣化の徹底も明記した。

アニメなどコンテンツ産業の司令塔を強化…「新しい資本主義」計画改訂案の骨子判明

政治家が「資本主義」だの「民主主義」だの「正義」だの「人権」だのと、いわゆるパワー・ワードを振り回すときには、たいてい何かを裏で誤魔化したりしているということは分かっている。あるいは、この国には昔からある陋習と言ってもいい判断や評価の基準として、まず最初に出来もしない壮大な目標を大風呂敷として広げてから、出来なかったという当然の結果に対して「過酷すぎた」だの「遠大だった」だのと、自分たちの無為無策無能を棚に上げて(実現可能性という観点から現実的な目標を設定できなかったことも一つの「失敗」であるというのに)、神に挑むようなものだから失敗してもしょうがない、許してくれと言わんばかりのポーズをとる。過去であれば「敗者の美学」よろしく、そのまま本当に腹を切ったり拳銃で頭を撃ち抜くような人物もいたわけだが、いまの政治家にそんな気概や責任感などあろうはずもないし、それに亡くなった人物には気の毒だが、自ら命を断つことが責任をとる最善の方法でもない。寧ろ多くの国や文化では、それこそが無責任というものだと見做されるからだ。とは言え、不祥事を起こした代議士が「責任を全うしたい」などと言いつつ、いけしゃあしゃあと政治の場に留まり続ける厚顔には辟易させられる。

かようにして、いまや「権力を持つ掃き溜め」と化した立法府にあって、人々から最も信用されていない人間が逆に集まるような何とかホイホイ同然の場所となっている議会や政府が、かようなお題目を並べても、真面目に受け取る人は少ない。しかし、困ったことにこれらのお題目によって莫大なお金が浪費されているという重大な事実を軽視してはいけないわけである。もちろん、僕らウェブ制作業界の人間は、広告代理店を経由して、かように愚劣な政策のおこぼれを頂戴するといったゴロツキのような仕事をしているわけで、仕事して落ちてくるものは仕方ないが、事前にかような政策なり予算の使い方を公に批評して、クルクルパーの官僚から電通や博報堂を経由して愚かな事案がこちらに回ってこないよう、まずは早い段階で牽制をかけないといけない。この段階で批評するなら、これは何も具体的に広告代理店を批判していることにはならない。

では中身を見ておくと、まず「コンテンツ産業を活性化させ、世界に通用する制作・流通を促進するため、一元的に取り組む司令塔機能を強化することを打ち出す」などと言っているが、これは要するに外郭団体や産業別の業界団体、あるいは受発注でなら広告代理店に何か適当な組織をでっち上げさせて、そこに文科省から退官したジジイを置いて金をプールして適当にバラ撒こうという話であろう。これまでの「産業の活性化」などと称してやってきた歴史を見ると、官公庁には特定の会社を優先的に助成するようなことはできないという建前があるので、そうしかできないわけである。でも、それゆえに予算の受け皿として作られた組織が何をしようと感知しないという話にもなるわけである。たぶん、アフリカなどにバラ撒いている ODA と同じで、最初に受け取るやつが大半を財布に入れるだけの話になる。あるいは、今年の流行語で言えば、広告代理店とかコンサルに巨額の発注をして、その一部を「キック・バック」させるとかだよね! 申し訳程度に「クリエイターが安心して持続的に働ける環境の整備」とか書いてるけど、こんなのはたぶんやらないだろう。だって、この手の問題は新しく規制や法令を増やして解決するようなことではないからだ。現行の労働法でも十分に労働者を守れるのに、法令を守らない事業者があまりにも多いことが問題だからである。もし法令でなんとかするというのであれば、それこそデザイン関係の業務を裁量労働ではなく時間で縛る他になくなる。そして、実はこれをやると大半の凡庸なデザイナーが仕事を失うのだ。

それから、僕は何日か前に読んだ山川恭弘氏の『バブソン大学で教えている世界一のアントレプレナーシップ』(講談社、2024)にも書かれていた内容と同じく、「リスキリング」というのは浅薄でデタラメな話だと思う。これは、恐らく何年か前に『学習する組織』というビジネス本が売れたり、あるいはスティグリッツの Learning Society なんて本も売れたし、それから knowledge management を強調する組織論なんかも流行っていて、一種のトレンドでもある。もっと前から「生涯学習」なんてものもあるし。でも、こうしたことがどれほど叫ばれようと、その現実はと言えば殆ど趣味的なものでしかない。会社の中では相変わらず脱法的なノウハウや違法な独自解釈や些末な Excel マクロなんかが上意下達で継承されているだけだ。また国民全般についても、生涯学習なんて言ってみたところで、その実態はといえば、暇な金持ち老人によるカルチャー・スクールや料理教室通いが関の山だ。それを通して、彼らが地域社会で何かを伝えるとか、あるいは教師や親の負担を減らすような活動をしているかと言えば、そんなことは殆どない。80歳で博士号を取りました的な些事が報道されたりするが、あれを生涯学習の成果だと錯覚している人がいかに多いかが、却ってそうした報道で分かる。もちろん、誰であれ社会貢献しないといけない義務なんてないわけで、地域社会に参加しようがしまいが自由であろう。しかしそれなら、政府や自治体が「生涯学習」などと政策として掲げる必要もないわけで、勝手にカルチャー・スクールなり手芸教室に通っていればいいだけの話でしかない。何事かを学ぶというのは、他人にレールを敷いてもらったり小遣い銭をもらってやることではないからだ。

それから、とりわけ昨今の「リスキリング」というものは、未知の業界に転職する者をサポートする職業訓練だとかセミナーのようなことを想定しているようなのだが、このような付け焼き刃的な学習で続々と素人が別の業界へ数年おきに参入するといった状況を、リバタリアンのように「労働力の流動化」などと呼んで歓迎するのはどうかと思う。その最も極端な例として北欧の例が引き合いに出されたりするわけだが、それと引き換えに北欧の国々ではどういう状況になっているかという、他の様々な作用(副作用)を無視して都合のよいところだけを眺めているのでは困る(ここは、僕が旧来の「保守」と意見を同じくするところだろう)。つまり、一部の EU 圏では職業を自由に替われると言うが、その結果として殆どの国民が長期的な経験や修練でしか得られないようなスキルをもっていない、要するに「アマチュア国家」「バイト国家」と化している。そうした国が GDP を初めとする経済的な指標において後進国並であるのは当然のことだろう。それでもいいというのも一つの見識ではあるが、口先だけでそうした EU 圏の国々に過剰な期待や妄想を抱いている意識高い系や都内の左翼などが、現実的にトレード・オフに耐えられるとは思えないわけである。

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