Scribble at 2020-08-17 10:36:33 Last modified: unmodified

根底に倫理の欠落という問題があって、西洋社会ほど嘘や中傷誹謗を排斥する能力をもたない日本語社会では、いますぐにでも社会を変えなければ、と焦る若い人たちは、次第に暴力に傾いていった。

言葉、暴力

記事のコメントには現今の状況が偏差値エリート選抜の成れの果てだと書かれているのだが、そうだろうか。僕はそうは思わない。寧ろ、偏差値つまりは試験の結果だけで人を評価せずに、内申書と呼ばれる閻魔帳を手にした教員の意向を探るような思考の生徒ばかりを育ててきたという、別の理由が悪影響を及ぼしてきたのではないか。しょせん、大多数の中学や高校の教員なんて、教育学どころか教えている科目の修士号ていどすらもっていないアマチュア集団なのだ。そんな根本的に勉強不足の人間たちが、しかも大学の教育学部を出て即座に学校へ就職してしまい、「学校」という産業の外の世界を全く経験もしないまま、生徒の社会性について「学校」の中だけで評価するという、それこそ中世の異端審問官のようなことをやり続けてきたのが、日教組がリードしてきた「個性を伸ばす教育」だの「民主的な教育」だのというタワゴトの数々であったわけだ。こんなバカげたことを、人の何世代分かに渡って続けてきたら、そら言葉の運用どころかその基礎と言える人としての社会性なり社交性にも歪みが生じてくるのは当たり前である。

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