Scribble at 2023-11-22 22:01:14 Last modified: 2023-11-23 09:07:53

日本で学際的な研究と呼ばれるアプローチが、まさに「学際的」などとキメラみたいに扱われたりする傾向があるのは、僕らのような哲学者、あるいは皮肉にも分野の区別に関心がない人からすれば、はっきり言ってどうでもいいことだったり錯覚ではないかと思える。そして、とりわけ日本では海外の学問を輸入した際に学問の分類方法や着眼点まで一緒に輸入したのだという自覚がないまま150年以上を過ごしてきたために、当時の分類から抜け出られなくなっているわけである。そして、それはそのまま大学の学部編成や学科編成にも反映されていることが多い。

さきほど Hacker News でマーガレット・ミードとサイバネティクスという話題のブログ記事を見かけたときに、あらためてサイバネティクス協会のサイトを眺めていて感じたのだけれど、恐らくこの分野でも大きな軌跡を残しているフォン・ノイマンのような人物にしてみれば、自分のやっていることが「数学」なのか「情報理論」なのか「物理学」なのか「サイバネティクス」なのか「通信工学」なのか、なんて実はどうだっていいと思っていただろうと想像する。僕は科学哲学者として、彼のような人物も「正統な」意味で科学哲学者と呼んで良いし、そうであるべきだと思う。そして、僕は自分たちの関わっていることを本来は「科学哲学」なんていちいち言う必要など無い筈だというスタンスを恩師である竹尾治一郎先生と共有しているので、ここから先の議論は現象学とか、あっちの議論は古代ギリシア哲学とか、そういうくだらない区別は不要だと思う。まさに、そういう区別こそ、自分のできる範囲でやっていることに自律した価値や意味があると思いたがっている無能な連中が手前勝手に捏造した、インチキな体系、あるいは三流芝居小屋の書き割りみたいなものだと思う。そういうのを、僕は当サイトでも繰り返して「自意識」と揶揄しているのだ。

物理学と数学の「違い」が何であるかを明快に断言できる者などいない。それは、数学的な根拠もなければ物理的な根拠もない、しょせんは人が勝手に作った区別にすぎないからである。およそ学問は人がやることなので、あらゆる学問の分野は暫定的であり流動的であり仮定的であると言えるだろう。そして、哲学というアプローチに何か特徴があるとすれば、徹底してそういう区別に足を引っ張られないでものを考えようとするところにあるのだろう。もちろん、だからといってそういう「哲学とは」みたいな自意識にも拘泥してはならないというところが哲学の難しさである。

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