Scribble at 2023-06-12 07:59:55 Last modified: 2023-06-13 00:01:39

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先ほど、朝っぱらから変な話だが Apple のキーノートを動画で観ていた。2時間を超える動画のポッドキャストであるから、ローカルへ取り込もうにも数ギガバイトになるため、興味深いところだけをストリーミングで眺めていたわけである(もちろん、お目当ては Apple Vision Pro だ)。

ただ、この動画もそうだが、他の動画を観たりポッドキャストのエピソードを聴いていても微妙な違和感を覚えることが多くなった。それは収録した動画や音声を後から編集して、息継ぎしている様子をカットしているからだ。以前もここで髭剃り関連のポッドキャストがまくしたてるような編集をしていて聴き辛い(英語の listening の問題としてではなく)と書いたことがあるけれど、どうやら動画や音声の配信にあたって息継ぎをカットするのが編集のトレンドになっているらしい。僕は、これは良くないことだと思う。

確かに世界的なトレンドとしても「タイパ」は求められているのかもしれない。でも、息継ぎや発音のインターバルも「会話」や「発音」の一部なのであり、それは文字で書かれた文章にピリオドやコロンがあるのと同じ役割がある。インターバルを削除するということは、何か話す前に一息置いて「これから重要なことを話すよ」という溜めがなくなることでもあろうし、何か話した後に余韻を置いて「いま言ったことは重要なことなんだ」と思ってもらうといった手法が意味を為さなくなる。全ての発音なり全ての発音がフラットになってしまい、どれが重要なのかはイントネーションや強勢あるいは一緒に映し出される映像効果でしか分からなくなる。なんでそんな、人のコミュニケーション能力を退化させるようなことをするのだろう。

一つ思うのは、そういう余韻や前置きとしてのインターバルにどういうニュアンスや implication があるかは AI が理解し辛いのだろうという予想である。つまり、われわれは人としての表現すら AI に最適化していっているのではないか。でも、本当にそんなポリシーで動画や音声を編集しているなら、そんなことをやり続けて達成される「シンギュラリティ」なんてものは、要するにコンピュータが人間の知性に追いつくという話ではなく、人間が機械の判定アルゴリズムで処理できるところまでコミュニケーション能力を制限したり退化するという話でしかない。

しかし、考えようによっては、それを「由々しき事」だと断定するのは軽率であるかもしれない。もしヒトの自意識や思考や認知能力を制限したり劣化させた末の「満足」や「安心」で十分だというなら、それこそ手軽な機械に何かを転送したりアップロードするだけで、ああ俺は機械に意識を移動させて生き永らえられるようになったと(低い認知能力の性能において)納得できてしまうような状況が実現するかもしれない。そして、それを「良くない事」であると最初から決めつける根拠は、恐らく哲学的にはないのである。もし哲学的に言って根拠があるというなら、それはつまり認知能力として制約が多くて(何らかの基準において)「劣っている」生物種は現状のヒトと比べて「かわいそう」だという話になるので、恐らくヒトは哲学的に他の生物種よりも優越しているという昔ながらの勝利者史観的で通俗的な進化の話と何も変わらないということになる。これは、ポストモダンの思想を経てきた21世紀の哲学者には選択できない発想(つまり学部生にすら呆れれらる未熟な思考)だと言ってよいだろう。

しかし、だからといってプレゼンテーションを AI の処理に最適化するのが「よい」からといって、それをそのまま人が視聴する番組やポッドキャストとして配信までする必要があるのか。AI に最適化したいなら、それは別のデータとしてどこかに置いて検索エンジンなり GPT-4 にでも「食わせれば」いいだけであろう。なんでそういう最適化をしなくてもいいと思える人間に、息継ぎを省略したデータの羅列みたいな動画だけを配信するのか。ひょっとして、世界中の「Z世代」とか言われている世界で一つだけのお歴々は、既に AI に最適化されたコンテンツを当たり前のように扱う現行の AI と同じていどの知性や感性が当たり前となっているのだろうか。(これ、言っとくけど若者を嘲笑したいわけではなく、いちおう反語だからね。)

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