Scribble at 2026-02-17 18:19:14 Last modified: 2026-02-17 18:25:27
This paper examines ethical customer boycotts, instances where individuals choose to boycott for ethical reasons. By focusing on the commercial freedom of the customer, it offers a new framework for distinguishing between permissible and impermissible boycotts. It concludes that individual ethical boycotts are almost never morally impermissible. The scope of the paper is limited. It does not attempt to answer the important question of when an individual boycott decision is objectively good or bad. Rather, it attempts to answer the prior question of when a decision to boycott—made by someone who believes their decision is morally right—is doing something that is morally permissible. In defending this position, the paper distinguishes between “objective ought” and moral permissibility. The paper argues that focusing on the right of a consumer to choose is the best way to approach the question, “May I boycott this product?” The approach shifts the emphasis in the boycott debate from prevailing frameworks based on democratic values, intentional harm, and libertarianism, toward a customer’s right to choose. It proposes a cosmopolitan interpretation that relies on the default right of market participants to refrain from commercial exchanges except under extraordinary circumstances. Among other benefits, this approach addresses gaps in alternative accounts that overlook a significant portion of customer boycott decision-making. The paper explains why the threshold for boycott impermissibility is very high: (1) because any claim of impermissibility must overcome the default presumption of freedom in commercial exchange; (2) because an unusual “hard duty” follows from a determination of boycott impermissibility; (3) because a boycotter’s true intent is difficult to discern; and (4) because boycotts serve as alternatives to violence. The account offered here implies that even decisions to boycott that are objectively wrong may be morally permissible. Finally, the paper shows why certain kinds of anti-boycott laws threaten an individual’s moral right to boycott.
自由経済社会においては、個人の私的な範囲での契約に自由が保障されているので、何を買うかが自由であるのと同じく、何を買わないかも自由である。したがって、ガザ地区で起きていることの報道を眺めて、かつてのホロコースト被害民族が現在はホロコースト実行民族に成り下がったと感じて、イスラエルを非難しないどころか支援すると明言している企業の商品をボイコットするといったことは、それが正しい認識であろうとなかろうと許容される。これだけのことなら2026年にもなっていちいち論文に書くほどのことかという気がするが、権利の問題として捉え直すことは無駄ではないのだろう。
僕らが日々の生活の中で、或る特定の商品を「買わない」と決める動機は、時に極めて個人的な嫌悪感であり、時に切実な政治的信条である。最近ではイスラエルに関連する企業の製品を避けるといった動きも目立つが、こうしたボイコットという行為が、単なる個人の好みの問題を超えて、どのような条件において「道徳的に許される」のかを論じたのが、トーマス・ドナルドソンの最新の論文である。彼は、これまでの多くの学者がボイコットを「民主主義を補完するための政治的手段」として定義し、その正当性を厳格な条件の中に閉じ込めてきたことを批判する 。彼によれば、個人の倫理的ボイコットが不許容とされるケースは極めて稀であり、それは市場参加者がデフォルトで持っている「商業的自由」という権利に根ざしている 。まぁ、普通に考えたらそうだよな。買う自由もあれば、買わない自由だってある。
ドナルドソンが展開する論理の面白さは、ボイコットが客観的に見て正しいかどうかという「当為」の問題と、それが許されるかどうかという「許容性」の問題を峻烈に区別した点にある 。たとえば、ある人が誤った事実認識や偏見に基づいてボイコットを行ったとしても、それが他者の生存を脅かすような壊滅的な被害をもたらしたり、人間の尊厳を著しく踏みにじったりしない限り、他人がその人に「買うこと」を強制する権利は持たないという 。ここには、ボイコットを「不許容」とする判断が、論理的にはその人に「買え」という積極的な義務、すなわち「ハード・デューティ」を課すことになるという、義務論的な記号論に基づいた強い警戒感がある 。
しかし、ここで一つの深刻な問いが浮かび上がる。ドナルドソンは、不作為である「買わないこと」は作為である「買うこと」よりも認知的・生理的な負担が少ないという非対称性を、倫理的な議論の強弱に置き換えている節がある 。確かに、一般的には何かをしない自由のほうが守りやすいように思えるが、人間の心理や生理を直視すれば、この前提は容易に揺らぐ。目の前のケーキを「食べるな」と言われることが、空腹や欲求に抗うための多大な意志力を要求するように、特定の対象に対する強い愛着や切実な必要性を持つ人にとって、不作為を強いられることは、何らかの行動を強いられること以上に過酷な介入になり得る。たとえば、僕の連れ合いが目の前で溺れている時に、「助けるな」と命じられることが生理的に耐えがたい苦痛であるように、対象との関係性や状況によっては、不作為のコストが作為を上回る逆転現象が起きるのである。ていうか、俺は命じられるかどうか、命じている内容の如何にかかわらず、そういう状況では連れ合いを助けに飛び込むがね。他人の命令など、哲学者が知ったことか。
結局のところ、著者がこの問題を心理的な好みの話に留めず、あえて倫理学の土俵で「許容性」として論じたのは、個人の自由な選択という聖域を、外部からの道徳的強制や法的な制限から守るための理論的な防壁を築きたかったからだろう 。彼はボイコットを、暴力に訴えることなく意思表示を行う平和的な代替手段として高く評価している 。一方で、個人の自由を最大限に認める代償として、ボイコットを煽るインフルエンサーや組織に対しては、その言論がもたらす集団的な影響や事実関係の正確さについて、極めて重い道徳的責任を課している点も看過できない 。
僕らがこの論文から受け取るべき教訓は、ボイコットの「正しさ」を競い合うことの不毛さかもしれない。たとえそのボイコットが、客観的には愚かで、特定の集団に不快感を与えるものであったとしても、それが「許容されるゾーン」に留まる限り、私たちは他者の不作為の自由を尊重せざるを得ない 。心理的な負担の非対称性という議論の危うさを抱えつつも、ドナルドソンの提示した「介入を拒むための高いハードル」は、同調圧力やキャンセルカルチャーが渦巻く現代社会において、個人の自律性を守るための冷徹で強固なシェルターとして機能している。