Scribble at 2022-09-13 09:48:47 Last modified: 2022-09-13 12:34:08

ありていに言って研究なり勉強というものは手持ちのリソースを使うしかない。しかし、そのリソースは自ら開拓したり誰かに与えられたり、あるいは書店や図書館や知人の書斎で偶然に見つけたりすることもある。そういう経緯について、方法だの学術だのと名前をつけてみたところで、せいぜい三流の社会学者になれるのが関の山である。そういう意味で、ファイヤアーベントが "anything goes" というスローガンを掲げたのは、雑というよりも寧ろ正確だったと評するべきなのであろう。僕が仕事としている情報セキュリティについても同じことが言える。しょせん、教科書に書かれた範囲の知識や情報だけの者には、他国の情報資産を効率よく破壊したり、多数の人々から金銭を巻き上げる、或る意味ではクリエイティブな手法など思いつかないし、それゆえ彼らに対抗する手段も思いつかないわけである。もちろん、何をやるにしても原理原則は大切だ。しかし原理原則に拘り続けるのは、それらを超えた先なり外を予感したり見通すためであって、これこそが正しい意味での creativity や「脱構築」というものである。

教員や誰かの師というわけでもない僕が哲学を学ぶ人々に期待することは、ready-made なものは常に特定の背景知識や意図や経緯で生み出された知識の歪んだ断片にすぎないという〈正確な〉理解をもつことである。これを安っぽいアフォリズムやスローガンとして雑に振り回すだけでは三流であり、そのようなスローガンを振り回すことが思想とか哲学だと錯覚している者は、遅かれ早かれ無能の指定席である自己欺瞞へ腰を落ち着けることになる。このことを正確に理解するためにも、数学や論理学や言語学や経済学など色々なアプローチに学ぶべきである。哲学にかんする読み物や教科書に並んでいる数多くの哲学者や、彼らについての情報と称されるガラクタ同然の雑なスローガンを振り回すだけの人間は、しょせん同じ程度の三流である編集者が筋書きを書いた、商品としての〈哲学劇場〉を演じている素人役者にすぎない。

そういうわけで、手始めに誰でも正確にわかることから考えてみよう。自分の部屋に本が何冊あっても、本が部屋に置かれているというだけで自分にとって必要とする勉強ができているわけでもなければ、必要とする見識について何か得られるわけでもないのは、自明と言ってよいだろう。暇潰しのファッション雑誌などでは、背表紙を眺めるだけでも勉強になるなどと嘯く成金風情の学者もいるようだが、そんなことでその人物が国際的なスケールで業績を上げたなどという事実は過去に一例もない。どれほどエレガントな書斎に数十万冊の書籍を誇っていようと、無能は無能である。

ここから次のステップへ考察を続けるのは容易い。数十万冊の書物を買い込んで全てに目を通していると語る、「編集工学」を標榜する蘊蓄おじさんとか、あるいは「新進気鋭の若手思想家」とか「元ゲーム作家」とか「元システム・エンジニア」とか、他にも同じように蔵書と読書量を誇る人々が、果たして正確に言って人類の知恵や技術の進展について何を貢献したのだろうか。小平なんてド田舎の高速道路について「熟議」とやらを展開したとか、あるいは立命で不細工なアイコンのアカウントでツイートを投げ続けることが、〈哲学〉として何らかの業績になったと評価できるとは思えない。では、彼らは専門家のコミュニティである学界では何の業績を出しているのだろう。そういうことを正確に調べたり評価できない、あるいはするつもりもないからこそ、多くの初心な少年少女たちは(うぶな少年少女も同然の愚かな大人も含めて)、彼らの雑で「わかりやすい」エッセとか対談とかを熱心に読んで、そしてそういうことに時間を使っていることで他の何かを投げ捨てていることに気づかないわけである。彼ら通俗物書きどもは、その事実を教えるどころか、膨大な数の「哲学本」だの入門書と称する紙屑を毎月のようにバラ撒いて、寧ろ初心者が途方もない暇潰しに時間やお金を浪費することを称揚しているのだ。こんな連中のやることが、統一教会やオウム、あるいは既存の三大宗教でも似たようなものだが、それらと大して変わらない所業であると言って何がいけないのか、というのが哲学者であるわれわれの意見だ。

こういうことについても、二言目には啓発だの啓蒙だのと利いた風な御託を並べるのが、出版業界の性癖と言うべきスタンスである。そして、大学の関係者は多くが出版社や報道機関との良好な関係を維持しないといけないため(彼らの多くにとっては本を出版することこそがパブリシティであり、業績であり、親孝行であり、学内政治の力になるからだ)、このようなスタンスについて哲学の教員が公に口を開くことは少ない。しかし、白熱教室が何十回と開催されようが、ソフィーがどこで何をしようが、そうしたものを読むことに満足しているばかりか、そういう(子育てについて三流の)ママから与えられた消化しやすい「わかりやすい」離乳食みたいな読み物ばかりを手当たり次第に飲み込む人間が増えるだけであろう。口先では「そこから一人でも」などとセンチメンタルなことを口走る者は出版業界にも学界にも多くいるが、そんなことが社会科学的なスケールで言って錯覚であることは、人類の歴史そのものが実証しているはずである。そして、更に悪いことに、彼らの期待する「一人」というのが、東大の科学史科学哲学教室に加わって「プロフェッショナル哲学者」のキャリアを邁進するような人という人物像であることだ。こういう、制度についての反省とか予備知識がまるで欠落していて、学問という営みが何を言っていようと人の営為であるからには制度や人間関係と切り離せないことくらい知っていながら、それを必要悪か given であるかのように受け流す態度は、僕らが言うのもおかしいが「サラリーマン」(自律的な観点をもつ「企業人 (business persons)」に対比して)としか言いようがない。

ここまでの議論は、もちろん当サイトでも何度か展開してきているのはご承知であろう。そして、僕が強調しているのは以上のような議論だけに限らないということも、ご承知だと思う。リソースとして書物や情報が単にあるとか、それらを読んで知っているというだけでは、〈哲学する〉こと、なかんずく〈よく哲学する〉ことにとっての必要条件ですらない。しかし、だからといって他人の成果や共同作業を軽んじたり、書物や論文に学ぶという作業を軽視することも同じ程度に愚かなスタンスだからだ。出版業界の多くの編集者や、通俗本の著者が無能でバカなのは当然である。バカだから、そんな本を書いて出版するのだ。われわれ哲学を志す者に、そんな些末なことがらは何の関係もなく、完全に無視してかまわない。「哲学を志す者」と言ったが、もちろん、「哲学」という言葉どころか哲学という概念に相当する何かすら抱いていなくても、事実上で哲学に比肩するような何かを志す者でも全く構わない。それを哲学だと理解したり、あるいは「哲学」と呼ぶかどうかなんて、実は哲学者であるわれわれにとっては皮肉なことにどうでもよい話である。

しかし、だからといって「本がなくても哲学できる」と豪語する者は昔から多くいるけれど、本当にそうい人々が生まれた時から本を読まずに過ごしてきたという例はない。そして、そういう人がいるなら、その人物は「本がなくても哲学できる」などと言わない筈である。なぜなら本を読んだことがないのに本が必要かどうかなど判断できないからだし、本を読んだことがなければ自分のやっていることが「哲学」であるかどうか確かめることもできないからである。それに、そんなことを確かめて、いちいち「本がなくても哲学できる」などと公言する理由もない。そんなことをわざわざ他人様へ公言することじたいが自意識プレイであり、何らかの錯覚やコンプレックスゆえのパフォーマンスにすぎないのである。哲学に関連する本を読むことなく哲学に比肩するようなことを考えたり為している人々は、僕は世の中に多くいたしいると思っているが、彼らは自分のやっていることが「哲学であるかどうか」などという問いはもっていないだろうし、そんな必要はないであろう。そういう問いをもつこと自体は、自己欺瞞を避けるために有効ではあるが、その暫定であれなかれ答えは自らにしか適応できない可能性があると知るべきである。安易に「本がなくても哲学できる」などと他人に語って見せるようなことは、たいてい自意識プレイでしかない。

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