Scribble at 2024-06-13 12:17:31 Last modified: unmodified

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1923年(大正12年)9月6日、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市)三ツ堀の利根川で薬売り行商人15名が自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9名が殺されました。これが福田村事件です。被害者は全員、香川県の被差別部落の人たちでした。

福田村事件

これまでに関東大震災での混乱した状況で、多くの東京人が在日朝鮮人や在日中国人を不当に虐殺したという話を書いた。しかし、上の事例でも分かるように、実は日本人ですら殺していたというのは(殺されたのが同和地区の人々だったという特別な事情がなかったとしても)、更に驚くべきことだ。つまり、異常事態が起きると、僕だって条件が悪ければ襲われる可能性があるということになる。

ここ最近になって東京圏に住むようになった人からすれば、僕が当サイトで何度か「東京人の何割かは人殺しの末裔」だと書いていることに気分を害すると思う。それはそれで、該当しない方にはお詫びしたいし、もちろん過去のことを言い出せば、僕の先祖だって村上水軍の一員として他の村を襲ったりした過去があるかもしれないわけだし、武士を先祖にもつ家系なんてだいたいが戦国時代とかに夥しい数の人殺しを重ねた末に生き残っただけの連中だろう。したがって、もちろん東京で暮らしている人々だけが過去を問われるべきだと言いたいわけではない。仮に、僕の先祖が明らかに殺害したと思える人物の子孫という人がいたなら、もちろん僕は殺した側の子孫として謝罪したい。

ちなみに、どうして「保守」を名乗っている人間がこういう左翼みたいなことを言うのか不思議に思うかもしれないが、日本の通俗的な保守というのは「日本」というスケールでしかものを考えておらず、したがって早い話が自己愛や自己肥大化の弁解として伝統だの文化だのという理屈をこねくり回しているだけの、殆ど右翼と同じレベルの無知無教養な連中だ。更には物書きに多い反米保守みたいな、アメリカで馬鹿にされたていどで保守を名乗るような連中にしても同じことで、コンプレックスを思想に仕立て上げるレトリックがうまいだけで文藝春秋などから続々と本を出している愚物にすぎない。それらは、はっきり言えば「保守」を名乗るに値しない。かつての我が国の侵略行為や植民地化などについて周辺国に謝罪する必要がないだのと言っている事例も含めて、かようなインチキ保守は「日本」すなわち自分の拠り所を基準にものを考え、そして守るという意味で「保守」と言っているにすぎず、それは思想と言うよりも「自己正当化」の言い換えにすぎない。そして、そこでの「自己」とはまさしく日本で生まれ育ったというだけの偶然的な属性にすぎないというのに、そこに何か特別な意味や価値があるかのように錯覚しているだけなのである。でも、僕はアメリカ人として生まれ育っていようと、あるいは中国人として生まれ育っていようと、同じ観点や基準で同じことを考え、そして同じことを言えるようなスタンスやアプローチこそ、われわれが信頼し、尊び、そして保守するべきものだと信ずる。それゆえ、僕は「人類史スケールの保守」と言っている。確かに、そうすると次のステップとして「では動物も含めたスケールでの保守」は成立しないのかという話になるのだが、僕はそういう思考実験には関与しない。動物に思想があるとか権利があるとか言っても、それはあくまでもわれわれ人が想定したり認めるだけのものであり、動物が自ら要求したり主張するわけではない以上、それは真の意味で自ら手にした権利や主張ではない。よって、犬が「犬の歴史全体を考えた保守思想」なんてものを主張し、そしてわれわれ人にそれを伝達したり訴える手段をもつというならともかく、犬はそういう認知的内容もなければ言語的な手段ももっていないのだから、差別に当たるかどうかはともかく同じ基準で考えることはできないと思う。

したがって、何の正当な理由もなしに虐殺された人々について、当時の千葉の人間に責任があるなしという議論において、香川で子孫にあたる人々へ謝るべきかどうかを、「日本」だの、あるいは通俗的な右や左といったイデオロギーをもとにして考えたり意見を言う事じたいが愚かな話だと思う。人類史スケールで言えば、これはどう考えても人として(それがロシア人どうしの事件だろうエチオピア人どうしの事件だろうと)やってはいけないことなのだ。

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