Scribble at 2023-08-13 09:49:29 Last modified: 2023-08-13 09:57:34

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Exploring the internals of Linux v0.01

既存の文書を別の文書に繋げる効用とか目的には、大きく言って三つある。一つは、既存の文書が分かりにくかったり、あるいはソフトウェアのマニュアルとかだと該当するバージョンが古かったりするため、いわば書き直したり改善したり変更するという目的で新しく文書を書き起こすことがある。次に、或る文書とか議論に現れる、個々の小さな論点を展開するという目的で文書を書き起こすこともある。そして三つめが、壮大な体系の知識とか文書を要点だけまとめるという目的で文書を書き起こすことがあり、上記はこの事例になっている。日本では、得てしてかような文書を「まとめ記事」だの「今北産業」だのと言って、それが書き表されたという事実だけで評価したり歓迎する傾向にあるが、それはもちろん、日本のチンピラ右翼が大好きな「動機の純粋さによって、結果の愚行を不問にしてしまうセンチメンタリズム」と同じであり、日本のエンジニアに想像を超える割合で、それこそ James Damore もびっくりするほど右翼やネトウヨが多いという事実をよく表している。

しかし、国際的な水準で考えると、このような文書は英語では誇張する必要もなく毎月のように誰かが書いているし、またこれらを読む暇な人も多いわけなので、読んだ上で評価できないものであれば打ち捨てられる。どこかの文化的後進国では、小学生がまとめた量子力学のノートを出版したりするというセンセーショナリズムが横行しているが、そもそもそのていどの神童なら履いて捨てるほどいるアメリカや中国やインドでは、既にそのていどの神童どうしが競争しているのである。10歳前後でハーヴァードの博士号を受けるような、本物の天才なんて、そう簡単に毎月のように現れるわけがなく、逆に続々と現れる数々の「おりこうさん」たちは、数が多ければ当たり前のように競争することになる。

僕は何度も言っているように「権威主義者」であるから、真の天才でもない人がどういうまとめ記事を書こうと、そんなものをいちいち読んで水準を評価してやるほど暇ではない。そして、他人が「素晴らしい梗概だ」と評価したとしても、僕はそもそも梗概を読む気がしないのだ。概説は、絶対に物事を省略したり短絡している著作物なので、本質的な欠陥があると思っているからだ。もし、概略で全ての言いたいことを伝えられるなら、文学作品のように文章表現とか長さそのものに効用がない限り、誰も元の文章のような長い文書を作成したりはしないだろう。それだけの文章で書き表すことには、それだけの理由があるのだ。よって、概要だけの文章は必ず元の文章において伝えたい内容の大半を奪う、ポモや都内のインチキ左翼の大好きな表現を借りて言えば「暴力装置」である。

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