Scribble at 2025-08-11 15:16:36 Last modified: 2025-08-11 17:37:23
先日、古本屋で『紙人形』(石垣駒子/著、保育社、1975)を見つけた。Stable Diffusion で生成する画像のモデルとして参考にしたい、いわゆる "still life" 系統の物品として、色々な郷土玩具や美術品あるいは単なる物体に興味をもっているのだが、こういうのを取り上げるのも面白い。そして、この本を開いて「はじめに」と題されている文章を一読しつつ、或る意味で圧倒されてしまった。
このような文章を原稿として許容した保育社の編集担当がどういう人物なのかは知らないが、これを「度量」と言っていいのかどうか、実は判断しかねる。それほど、この石垣駒子という人物には基本的な文章力がない。この40年くらいの間に中等教育課程の現代文などで文章構成を教わり、そして色々な文章を手本として読んでいるであろう、大半の人々からすれば、これは異様というか支離滅裂というか、とにかく読み辛い文章の典型だと思うのだが、なぜか非難したり罵倒する気にはなれない。
一つには、著者が1916年生まれであり、この世代の女性は大半がロクな教育を受けておらず、また本を読む機会にも恵まれていなかったと思えるからだ。もし著者が僕の想像するような素性で育ち、良い教育を受けたり良い文章を読む経験を積んでいなかったのであれば、そういう経緯の人物が書いた文章を非難することは、「客観的な基準による批判」という体裁をとった institutional sexism(制度的な性差別)となるかもしれないわけで、自分では文章表現の正しい基準で批評しているつもりでも、それを誰彼に押し当てて平然とすることは、少なくとも社会科学の素養をもっている哲学者としては迂闊どころか愚かというものであろう。
そして二つめに、確かに著者の文章は支離滅裂だが、なぜか妙な味わいがある。たとえば、冒頭はこうだ。
「今回の人形は、はじめての方にでもできるように、なるべく簡単な作り方にしました。」
これがいきなり冒頭に出てくる。「今回」? ということは、この本は続編なんだろうか。いや、続編だったら応用ということになるので、「はじめての方にでもできるように」という表現はおかしい。そして、「簡単な作り方」というのは、この本の編集方針のことではなく人形の作り方という意味なんだろう。でも、これは紙人形を解説する本ではないのか? どうしていきなり作り方の話を始めるのだろう・・・などと、最低でも高校を出ていて現代文の授業を受けている者であれば、この支離滅裂さや言葉足らずにはイライラさせられる人もいるだろう。また、この著者はえんえんと「姉さま」という表現を使っていて、「あねさま」という読み方すら141ページに至るまで説明しないのだが、そもそもこの「姉さま」が紙人形の呼称のことであるという説明すらしない。ふつう、こういうことは出版社の編集者がきっちり構成を整理して著者へフィードバックしたり指導するものだが、どうもそういう編集者としての文章指導をやった形跡が全く無いのである。僕のように、子供の頃から勝手に同人誌のようなものを作ったり、雑誌編集のプロとして働いたことすらある人間からすれば、これは編集者が度量としてこのままにしたのか、あるいは編集者としての単なる怠慢なのかは、判断しかねる。