Scribble at 2022-02-16 13:53:09 Last modified: 2022-02-16 16:45:12

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We advocate for human rights regardless of gender, origin, age, beliefs or gender orientation. We support local feminist organizations that fight for the protection of human rights of women from Palestine, Israel and Jordan. Surgir is a Swiss Foundation, apolitical, non-confessional and committed activist for more than 20 years against all forms of gender-based violence.

Fondation Surgir

連れがメモとして残していたリンクからいくつかたどると、このようにスイスを本部としている「シュヤジーア」という団体のサイトがあった。"all forms of gender-based violence" とりわけ中東から中央アジアにかけて多い "honour killing(名誉を守る殺人)" と呼ばれる風習から女性を保護したり、情報なり教育を提供しており、後のリハビリテーションもサポートしているという。この「名誉殺人」などと言われている風習については、困ったことに世界の各地で「国家を持たない民族」として差別されているクルド人にも同じ風習があり、民族としては保護したいが人権侵害の風習をもつ民族として非難するべき対象でもあるという微妙な扱い方が必要のようだ。

でも、現実のボランティアとか社会運動というものは、こういう複雑な事情をかかえた民族や地域や集団や個人や団体などと交渉したり契約したり対抗したり協力するものなのだ。日本では、差別されている側だからといって聖人君子とは限らないとか(たとえば松本治一郎はどうだろう)、何から何まで気の毒な境遇であるとも限らない(たとえばコリン・パウエルはどうだろう)という事実を言うだけで「ネトウヨ」だのヘイトだのと脊髄反射を起こす左翼が多いが、現実にネトウヨとかアメリカの white trash と呼ばれる人々が陰謀論や白人至上主義やネオナチへ傾倒するようになるのは、そういう現実を無視して豊かなものが貧しいものを助けるとか、正しいものが間違ったものを助けるとか、安全なものが危険なものを助けるとか、そういう短絡的なスキームで援助とか福祉とか差別を理解する、寧ろボランティアや福祉や社会運動に携わっている側の問題にあるのだろうとも思う(実際、アメリカでは「リベラル」と称して熱心に援助活動している人の中には、事実上のリバタリアンがいたりするので、自分が同情する相手には色々と援助しても、興味ない相手には平気で「自己責任」と言ったりする)。

一例だが、昨年の暮れに小島剛一氏のブログや Twitter で多くの人に知られるところとなった黒人のアジア人差別という話題についても、たとえばアメリカの西海岸などで黒人の暴動が起きると韓国人が経営する店がすぐに襲撃されたりする事例がたびたび紹介されているというのに、日本で Black Lives Matter とだけ叫んでいる短絡的で「意識が高い」人々には全く理解されない。彼らにとって黒人は〈徹底的にかわいそうな人々〉なのだ。それこそが差別であるという自覚がまるでない。

簡単に言うと、日本人の多くがやっている援助とか福祉というものはセンチメンタリズムが動機になっているのだ。動物や環境の保護とか保全活動を例にとっても、生物多様性を学んだうえで色々な仕組みを総合的に判断して特定の種だとか生息地域や植生・気候・地理を保護しようという活動ではなく、テレビや Twitter のタイムラインに流れてきた、それこそ「インスタ映え」する可愛い小動物を守ろうという話でしかなく、しょせん部落差別や女性差別や在日朝鮮人差別に関わる動機にも、その手のセンチメンタリズムがあったりする。それゆえ、原理原則で動いているわけではないから、熱が冷めたり興味を失ったり活動に関連する人間関係が変わると簡単に無視したり離れてしまう。あるいは、お気に入りの思想家や社会学者が本を書かなくなったテーマには関心がなくなるといったことが起きやすいわけである。まるで、ジャニーズのタレントが山登りや中国拳法や手話の練習を止めたら自分も止めてしまうミーハーと同じだ。確かに西洋人のそうした「原理原則」の多くが特定の宗教的信念やイデオロギーにすぎないという偏向はあろう。それゆえ、まったく手放しでどちらが良いか悪いかを論じても意義のある議論にはならないだろう。しかし、少なくともそういう現状があるという冷静な見方をもつことは大切だ。

なんにせよ、上記で紹介した SURGIR の活動とか、あるいは何年も前に『ハーフ・ザ・スカイ』という著作を読んだ Nicholas Kristof 氏のジャーナリズムについても、コミットしているテーマはシンプルだが、実際の活動に関与する人間関係や法律やファイナンスなどは非常に複雑であり、そして価値判断やイデオロギーや政治・行政との距離の取り方も色々と参考になる筈だ。SURGIR については日本で紹介するページが殆どないため、こうして取り上げておいた。日本人が海外の話を紹介する場合、そのほとんどが英語で書かれているものに極端なくらい偏っていて、SURGIR のようにフランス語をベースに実績を紹介しているサイトの情報は伝わり難いという事情があるからだ。なので、僕もフランス語は殆ど読めないのだが、せめてサイトを紹介するくらいはやっておきたい。

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