Scribble at 2024-08-18 09:07:37 Last modified: 2024-08-20 15:58:45
多くの人々は、たぶん学術研究者であろうと、人文系の学問というのは古典の読書ばかりしていて、古今東西の古典的な著作を続々と翻訳したり解釈する書物を出したり、論文を書いているのだろうと思われているかもしれない。しかし、これだけ色々な国の色々な時代に書かれた著作を翻訳している「翻訳大国」を自負してもいい状況でありながらも、実際には古典的な著作の多くは翻訳されていない(つまり、それだけ他国でも外国の古典なんて翻訳されておらず、エリートが英語訳などを読んでいるだけなのだ)。いや、それどころか現代人に読めるような文章に翻訳するという意味で言えば、日本の古典すら満足に翻訳されていない。その代表が、僕は二宮尊徳の『二宮翁夜話』だと思う。
そもそも原典を手に入れようにも、いまでは古本で買うしかない。たとえば、1941年に出版された岩波文庫は、2004年頃に重版されたのを最後に出回らなくなっている。また、中公クラシックスも2012年に出てから書店では殆ど見かけない。それらは、古文、そして現代語訳のどちらかしか掲載しておらず、どちらも語釈の記述はきわめて不十分であり、読み下し文であろうと現代語訳であろうと、それを読んで勝手な印象をもつに留めるだけの役にしか立たない。ゆえに、これら原典の大半は色々な意味でどれも例外なく、恥ずかしいことに不十分な編集方針で制作された、およそ古典に対する扱いとは思えないほど杜撰な本ばかりである。
まず第一に、ビジネスや経営、あるいは自己啓発系の思い込みだけで解説されたり意訳されているような、はっきり言って国文学や歴史学の素養がない素人による本は、なんであれ無視してもよい。そういうものは、金儲けやら経営やら、何を掲げていようとスケベ根性という一点だけで読むに値しない。また、何の根拠も素養もなく、いたずらに「哲学」だの「哲理」だのと巨大な思想のお化けを宣伝するような素人の書くものも読むに値しない。結局、原典を典籍として読み解く正確な力のない、国文学や歴史学の学位なり素養を持っていない人間の出鱈目で自分勝手な解釈を押し付けた本など、読む必要はないのである。
第二に、もちろんわれわれは典籍を読み解く経験なり素養を積んでいないのだから、現代語訳、いや少なくとも丁寧な語釈を添えていない、原文しか掲載していないような本は、おおよそそれだけ読めるジジイか、あるいは国文学の研究者だけの資料というべきものであろう。そういうものを一般向けに出版すること自体が傲慢であり杜撰である。『二宮翁夜話』の大多数は第一のパターンだが、この第二のパターンも多い。というか、これら第一と第二のパターンだけで殆どを占めており、正確な語釈や現代語訳、それから学術的に評価できる原典批判を全て加えた『二宮翁夜話』というのは、存在しないと言って良い。
二宮金次郎のような歴史上の有名人による語録ですら、これほど不十分な著作物しかわれわれは手にしていないのである。僕が専攻する哲学の古典でも、十分に多くの研究者が手掛けていて複数のバリエーションから選択できる余地があるような古典的著作など、ほんの一部である。プラトンの一部の著作と、カントの3部作、それからハイデガーの『存在と時間』くらいであろう。それ以外は気軽に買って読めるような値段ではないアリストテレスの全集やライプニッツの著作集やフッセルの著作集、そしてそもそも著作が殆ど古本でも手に入らないラッセルや、通俗本の「超訳」以外は古本でしか買えないニーチェなど、散々たるありさまだ。そして、日本でいまでも続々と出版されているのは、「わかりやすい哲学」だの「超入門」だの「最新用語事典」だのという、実は philosophizing という意味での哲学に何の関係もない、いわば業界マニュアルみたいなものばかりだ。こんなものを読んで、いったい若者や素人の方々は何を期待したり意欲をもっているというのだろうか。誰かに「哲学やってる」などと格好つけたい、何らかの自意識を補填したいだけであろう。