Scribble at 2024-07-12 09:30:07 Last modified: unmodified
僕はあからさまに書いていないし、もちろん信夫くんの「診断」の是非については疑問の余地はあるけれど、この石丸という人物の言動が異様であることは事実であって、これは新世代の政治家だの、ネット世代の政治家だのという話ではなく、ようするに日本が昔からやってきた悪平等あるいは「ハイパー形式主義」の結果として、味噌もクソも平等に扱うという思考停止の結果なんだよな。つまり、neurodiversity が流行しているし、これを否定することは「差別」であるがゆえに、異様でもなんでも一つの価値観だの信念だのと言っては、イージーな相対主義を僕らに押し付けるわけだ。世界で一つだけの花だもんね・・・
でも、遺伝子としても化学的な組成としても、あるいは地理的な位置情報としても、僕らが個人としてユニークであることは「個人」という概念がそもそも含意しているのであって、自明のことなのだ。文学作品でわざわざ語られなくても、まともな大人なら1,000年以上も前から知っていることなのである。しかし、社会や文化というものは自立した基準や価値観をもっていて、それは共同体が築き上げて継承していくものでもある。そこでは DNA の場合と同じく「転写エラー」のような事も起きるわけだが、いずれにしても自分たちが生きて暮らしていくために必要な知恵や工夫の集積として「伝統」というものあり、そして僕は「保守」の思想家として、これをいたずらに組み替えたり壊すようなことは愚行であると言っている。僕がこの国のインチキな保守な無教養な右翼と違っているのは、そのスケールが日本などという範囲ではなく、人類史全体をカバーするべきだと考えている点にある。よって、僕の保守思想は日本という国が消えて亡くなろうと、あるいは「純粋な日本人」などと言って愚劣な発言を繰り返す馬鹿が宇宙から消え去ろうと、関係ないのだ。
そして、そうした文化や制度や慣習は一定の数の個人にとっては適応が難しいものであろう。それゆえ、可能な限りフォローするという制度もある。ただ、前にも書いたように、未成年者に対する性犯罪の前科があるような人間に職業選択の自由を保障するのは「自由」の濫用であるという法理がありえるように、個人が個人というだけで既存の全ての権利を享受するわけでないのも事実であり、そして事実であるばかりか、それは社会を防衛するという「正義」のためには必要ですらあると言いうる。よって、石丸氏のような口先だけのマーケティングで活動するような人物が政治家になるのは、いくら政治家の役割が弁論活動も含むとは言っても、危険であろう。