2019年09月27日に初出の投稿

Last modified: 2019-09-27

それほど大きな話題にはなっていないが、PTA というのは歪んだ道徳観で子供の情報アクセスを制御しようとする組織だという非難が何度か聞かれる。その典型が「有害図書」を指定するというもので、似たようなことはアメリカなど他の国にもある。もちろん、作家によっては「有害図書上等」という姿勢で、逆に何かの勲章だと言わんばかりの対応をする者もいるが、常識的にはエロ漫画や大多数のラノベが指定されるのは当然だし、河出書房新社のエロ小説とか(同じ出版社だからドゥルーズとかの訳本と近い場所に置かれるので、いささか困惑することも多い)、子供どころか大人でもたいてい読む必要のないクズみたいな出版物が指定されて消えてなくなろうと、文化として何か重大な損失だとか多様性が失われるなどということは全くありえない。そもそも、オリジナルである生物の多様性というものは、膨大な種の絶滅とセットなのであり、なんでもかんでも保存することで多様性が維持されるなどという日本の社会科学者が喚くような「多様性」は、端的に言ってナンセンスである。

要するに、PTA のような素人の組織が雑な価値観でものごとを判断するという愚かさは言うまでもないが、だからといってそういう判断に全て抵抗すればいいというわけでもない。言ってみれば、プラス・マイナスがゼロであるにすぎず、PTA によって有害図書と指定された著作物を全て救えば世の中の多様性が保たれるとか、何らかの価値が増進され向上するかのような妄想を抱くのは、それこそ PTA の会議で金切り声を上げる母親や大声で喚く父親と同じようなものであろう(もちろん、母親が大声で喚き、父親が金切り声を上げてもいい)。

つまりは、既にイデオロギーと呼ばれる単純な原則だけでものごとの是非を判断する時代は終わりを告げたというのに、まだ自分の知りうる範囲でものごとを理解することに安息するような人々が大勢を占めているということである。確かに時間は限られているし、能力も限られているし、期限がついている場合もあろう。しかし、本当にあらゆることが特に短い期限付きで即座に答えを出さなくてはいけないものかどうかは、自明でもなんでもない。それゆえ、PTA の判断についても、その前提となっている価値観の未熟さや判断基準の不当さ、そして所与の知見が偏っていたり不足していることを、個別に検証していってもいいのだろう。すると、結論としては正しくても理由が間違っているとか、前提は正しくても推論が間違っているとか、色々な事例があるに決まっている。

昔話になるが、僕の母親は小学校の PTA の懇親会では教員の隣や中央付近に席を陣取る、それなりの権勢を張っていたらしい。その当時、H という同級生の母親と派閥のようになっていたようだ。そういや、H は上本町にある、かつては体操で有名だった学園の経営者一家の一人なのだが、政治家の秘書をしているという近況を誰かに聞いた後は消息を知らない。些事はともあれ、そういう事情があって PTA というのが凡人の愚かなミニ政治ゲームや安っぽい社交ショーであることは、小学生の頃から嫌でも目にしていた。毎月あった PTA の会議となると、当家は別に資産家でも元華族でもないが、母親は会議のたびに新しい洋服を買って出席していたのである。ごくありふれた公立の学校だと、逆に地域で家の近い人たちが集まるため、一種の互助会のようになっていて、参加しないと爪弾きに遭うとか色々なケースが報告されている。言ってみれば、そういうことをやっていれば子供や社会のためだという集団催眠やアビリーンのパラドクスなのだろう。しかしそれでも、個々の事例を取り上げると「成果」として評価できることもあろう。

個別の作品について語っても切りがないけれど、たとえば『サーキットの狼』とか『頭文字D』なんて作品は、そら有害図書に指定されるのも無理はないだろうと思う。どう考えても違法行為を美化しているからだ。かといって、いまでも違法ではないのに登場人物がタバコを吸うのはいけないなんていうのは、おかしいと思う。タバコが身体によいものだと表現しているわけでもなければ、その姿勢が格好いいと描かれているわけでもないなら、タバコを吸う人はいるという事実を描くのに何の不都合があろうか。由々しき人間を描いてはいけないというなら、政治漫画なんて、登場人物は全て姿かたちのない吹き出しだけでしかものを語れないであろう。

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