Scribble at 2023-10-11 07:50:49 Last modified: 2023-10-11 09:44:40
だれか、教科書的にまとめた本を出してほしい。
こういう不平不満を言う人というのは、もちろん少なからずいて、むかしから2ちゃんねるでも「今北産業の社員」だとか「効率厨」などと言われたりするし、僕が中学生だった40年前でも「チャート式中学生」などと揶揄したものだった。もちろん、だいの大人にもそういう手合はいて、修士くらいの学位で理学系の学科を出たような人に限って、「理系の論文は3ページで世界の真理に迫っているのに、文系は1,000ページの大冊をもってしても下らない些末な事実に名前をつけて喜ぶていどの成果しか無い」などと言ったりするものだ。こういう、たとえば CERN などでの実験成果を著した数十人規模の執筆者が並ぶ論文をプレプリント・サーバで眺めたことすらない素人が、その手の妄想を喚き散らしているのが、この東アジアの文化的辺境国家の実態である。ちゃんと、具体的に自然科学の分野で公表されている論文なり著作物をアマゾンだろうとプレプリント・サーバであろうと、自分の目で見たことすら無いインチキな修士さまが、こういう愚劣な差別意識で文化を汚染するわけである。無知なくせにこういう僭越なことをする連中には許し難いものがある。もちろん、この逆で「分厚い記述」などとバカのひとつ覚えのように無駄に長大な文章を書いたり、たんなる聞き書きの原稿を出版物として垂れ流すような日本の社会学者も同罪と言ってよい。(必ずしも岸くんの著作を想定しているわけではない。)
物事を文章で説明したり論証したり解説するにあたって、必要十分な分量の文章を書き表すことが望ましいという、毒にも薬にもならないような原則は原則として誰でも賛同するであろう。では、その必要条件や十分条件は何なのかと言われてクリアな議論ができる人はいないからこそ、こうして或る人にとっては3ページくらいで宇宙の真理を語るアフォリズム、あるいは数式を1行だけ書いて済ませるエレガントさという妄想を追いかけてしまうことになる。これが自然科学者の実務なり自然科学の論説の実態として愚かな妄想であることは、大半のプロパーに同意してもらえるとは思う(もちろん短報の類なら1ページや2ページで画期的な成果を伝える文章は数多くあろう)。
しかし、それ以前の問題として、やはり言語表現によって「真理に迫る」とか「真実を伝える」とか(おお、久しぶりに分析哲学してるような気がする!)言ってしまう軽率さや、あるいは言語、それからもっと進んでヒトの知性がそういう何事かを理解したり知覚する必要条件を満たしているという傲慢な(と思える)思い込みについて議論しなくてはならないだろう。とりわけ、cognitive closure を支持する一人として、ヒトの知性が宇宙の真理(それがヒトの知性で定式化できる何かであれ)を把握なりなんなり特別な認知状態に達する(そしてそれを社会的にも合意できる)ための与件を満たしているという仮説に何の説得力や妥当性があるのかを問うことは避けられまい。要するに、われわれにとっては本のページ数が(上記のコメントを書いた人物が「教科書的にまとめた」と言っている本がどのていどのページ数なのかは知らないが)100ページであろうと1,000ページであろうと、そんなことは些末な話でしかない。1,000ページがいかにも長くて冗漫であろうと、それしかないなら読むのが知性ある人間の選択というものである。「教科書的にまとめた」、僕ちゃんの未熟な知性や情報処理能力にも嬉しいご本を出版してくれないかなぁと、飴玉をしゃぶる子供のようなことを言っても、そんなことは出版社や学術研究者にたいする牽制にはならないのである。なぜなら、彼らは300ページの構成を設計してものを書いている際に、それを「教科書的にまとめた」ような本として出版することに何のインセンティブも持っていないからである。
必要なら、1,000ページだろうと10巻本だろうと読む。なにやら「体育会系」と揶揄されそうな話だが、読書もまたスポーツなり労働に比肩するべき作業なのである。ついて来れないなら、何の見識や学位や実績や地位があって言ってるのか知らないが、学術書にたかだか消費者風情で意見するのはやめることだ。