Scribble at 2023-01-02 20:56:49 Last modified: 2023-01-03 19:09:53

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何度も書いている話だが、オンラインのリソースは何かを学ぶにはきわめて不十分である。仮にそれがオンライン・サービスやらウェブ・アプリケーションの技術だとしても、オンラインに十分なサービス設計の知見が公開されているわけでもないし、オンラインに体系的で学ぶに値するソフトウェア・エンジニアリングの知識が公開されているわけでもない。海賊版の PDF をばら撒いているサイトから教科書をダウンロードすることはできるが、常にそういうことができる保証などないし、そうあるべきでもないのだろう。

考古学や歴史については、自称ファンとかオタクあるいは最近だと「歴女」だの古墳マニアだのと暇潰しに忙しい人々が考古学や歴史学に関わる話題をツイートしたり、史跡を写真に収めて Instagram などに投稿しているが、地方公共団体の発掘調査や史跡の保護にかかる予算は厳しいままだし、学術書の出版社も大して販売成績が伸びている様子はない。要するに、不勉強な人間がイージーに手を出しやすい話題の一つが歴史であり(たかだかテレビ局の構成作家風情や三流憲法学者が本を出版できるくらいだ)、それから他にも教育であり、飲み食いであり、風俗や遊び事であるからして、凡人がどれだけ集まってこようと文化財の保護にとって何の関係もないわけである。それどころか、発掘するたびに物見遊山で集まってくる考古学ファンと称する暇人を相手に現地説明会を開かなくてはいけなくなったり、余計な手間やコストがかかるだけだ。

さきほども久しぶりに検索してみて唖然とさせられたのだが、「土師器」というキーワード一つを検索して Google が返す結果は、重複などを除けばわずか88件である。考古学が扱う古墳時代の重要なキーワードの一つであり、土師器や須恵器についての詳しい理解や知識なくしては博士や修士どころか、学士の学位すら与えるべきではないと言えるほどの重要な遺物だ。でも、検索すれば88件しかページがない。しかも、僕は全ての検索結果を見てみたが、学術研究の成果として読むに値するページは5ページ以下だった。京都橘大学のサイト(「日本古代土器の基礎知識」haji-sue.jp)が抜きん出て詳しいが、それだけだ。大半が「土師器とは」といった『広辞苑』にでも書いてあるようなクズ解説だし、地方公共団体の博物館のページもあるにはあるが、非常に底の浅い掲示物レベルの説明だ。そして1割くらいは、どこかで掘り出された土師器を骨董品として販売するページである。もちろん、土師器に関する出版物(大半が古本)のページもある。でも、考古学のプロパーが何かを解説しているページはないし、それどころか考古学ファンを自称する年寄とかオタクのサイトもないようだ。

結局、好事家がやることなど公共の利益とは関係がないのである。もちろん、素人に社会的な責任などないわけで、古墳ファンを自称する人々に土師器や須恵器のサイトやブログを運営しろと求めることはできない(また、運営したところで小学生時代の僕にすら及ばず、ロクな記事は書けまい)。あるいはプロパーに求めることも無理がある。プロパーはあくまでも学術研究そのものが責務であるから、アウトリーチや一般向けの解説に必要以上の工数を使うべきではない。そんなことをしなくてもプロパーが考古学の調査や研究が続けられるように、大学なり教育委員会なり外郭団体なりで活動をサポートするのが国や地方自治体の役割であろう。しかるに、こういうことはアマチュアが不備を見つけたら、時間や労力やお金や精神的な余裕があるときに、何らかの仕方で可能なだけのコンテンツを揃えるように努めることが一つのコミットメントの仕方であろう。とは言え、これも任意にコミットする課題である。プロパーとは違って、アマチュアの社会的な責任などない。プロパーには社会的な責任があるからこそ、彼らは擬制としての権威を有するし、彼らの意見が優先される。たとえプロパーであっても、仕事をしていない人間や無能に権威など与えられない。もちろん、彼らと同じだけの成果をあげて業績として認められたら、アマチュアであっても権威を与えられてしかるべきだ。権威とは社会的な立場に付随するのではなく、業績の評価に付随するものだからだ。それゆえ、たとえば考古学だと原田大六氏の著作には(九州大学の面々は不愉快かもしれないが)一定の権威が認められるのである。僕も中学時代は原田氏の『邪馬台国論争(上・下)』に展開された激しい論調に賛同していた鼻っ柱の強い子供だったので、原田氏と同じく電話嫌いだったし(というか、当家は両親も電話嫌いだったが)、大学に籍はなかったけれど極め付きの素人嫌いだった。

もちろん、僕は考古学での権威などほしくもないが、こういう実情を見せられると何とかしようかと思案してしまうのも心情である。それこそ、ウィキペディアしかまともな情報がないなんてのは、歴史や文化を継承する何らかの共同体(別に国とか民族でなくてもいい)に属している一人として、やはり恥ずべきことと思える。考古学ファンや古墳マニアを自称し、前方後円墳とかのキーホルダーをスマートフォンからぶら下げて、他人にしょーもない蘊蓄を偉そうに語って見せたいだけの自意識くらいあるなら、こういう現状に恥じるくらいの感受性も持ってもらいたいものだ。頼むから、丁寧に勉強しろよって思うね。

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