Scribble at 2025-01-10 09:12:30 Last modified: unmodified

生成 AI vs. クリエイターという議論は現在も、というかこれからも続くと思うのだけど、僕は生成 AI の原理から言ってクリエイターの仕事は欠かせないと思ってるんだよね。もちろん無断で彼らの作品をスキャンしたりウェブ・スクレイピングしてトレーニングの素材としてかっぱらうなんて真似をせずに、正当な対価を払うなりトレーニング素材を揃えるために発注して、まともなエコシステムを構築すればいいだけのことだ。

要するに、既存の generative AI 企業は、そういうコストをかけずにクラウドのヴァーチャル GPU をブン回すコストだけで事業を運営しているのだから、ナオミ・クラインのような左翼ライターじゃなくても、かようなやり方は非難して当然というわけだ。結局、この場合も過去と同じく脱法的なことをやって既成事実を作ったゴロツキが勝つという、「自由」なアメリカ流のベンチャー手法が市場を席巻しているというだけでしかない。経済学的(そして、本来は経営学でも言えるはずだが)には100年前のベンチャーと同じことをしているのだ。

ともかく、トレーニング用のデータなんてオンラインでスクレイピングできる数なんぞしれているわけだ。たぶん OpenAI や Stability.AI のような企業は、いまウェブで手に入る画像は全てダウンロードし切ってると思う。なので、それらをどう encoding / decoding するかというアルゴリズムの開発にも努力しているのは分かるのだけど(それはそれでコンピュータ・サイエンスとしてやればいい)、既にリソースの枯渇は一昨年からでも言われていたわけだし、完全に教師なしの学習を実行するまでの性能はないわけだし、原理的にも最初から教師なしでクリエイティブを(音楽だろうと画像だろうと)生成するなんてことは不可能だろうと思う。それはちょうど、数学を勉強してもいないコーダ風情が IT でイノベーションだと叫んだり、美術史に無知な素人が創造性を叫んだりする愚行と同じである。もちろん、17世紀の美術を全く知らないイラストレータや画家が適当に描いた作品だって高額で取引されたり評価されるし、離散数学を知らない人が IT 企業で成功したっていいわけだが、そんな偶然に期待しないといけない社会というのは、結局のところ「コーディング教育を宅の坊っちゃんに施してゲイツやジョブズに育てる東大卒の主婦」みたいなキチガイどもと同じで、カウボーイやアウトロー(いまでは発達障害という、他人から批判されにくい鉄壁の盾が出てきた。何を言っても「それは差別だ!」と跳ね返してくる)が世界を動かすなんていう御伽噺と同じである。ちょうど、昨今は経営学でも「ソース理論」と称して、たった一人が世界を変革するなんていう半世紀前の経営学や自己啓発系の本みたいな幼稚なことを億面もなく言い始める連中が出てきている。

世界で一つだけの花である、AI 関連で一儲けしようと前のめりになってる都内のインチキ起業家の諸君、がんばりたまえ。

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