Scribble at 2026-06-30 14:56:23 Last modified: 2026-06-30 15:06:16
This book provides a historical overview of philosophical debates about the distinction between science and pseudo-science, and a demonstration of how the Western Marxist tradition’s notion of the critique of ideology can elucidate this distinction. The way in which pseudo-science is often ideologically motivated is discussed in depth. Particular attention is paid to the manner in which ideology masquerading as science manifests itself in the work of genuine scientists themselves, when they popularize their work or interpret the social significance of their findings. The question of the demarcation between science and pseudo-science was once a central theme of the philosophy of science, with Karl Popper’s criterion of ‘falsifiability’ (the capacity of a hypothesis to be refuted by evidence) drawing heated debate. The author furthers the case for the centrality of the question of demarcation to a critically confident philosophy of science and argues for the value of incorporating ideology-critique into this field. This unique approach makes the book of great value to anyone interested in the history and philosophy of science and anyone interested in the social and political context of scientific research.
かつて企画した科学哲学のテキストでは、こういう議論を積極的に採用したいと思っていたんだよね。「科学の現場に寄り添う」と称して、現実の科学者へのリップ・サービスに終始するフェラチオ科学哲学なんてまっぴらなんだけど、かといっていたずらに「科学者の社会的責任」というフレーズを振り回す青臭い左翼の正義マン科学哲学にもコミットするつもりなんて全くない。およそ哲学者として受け入れ難い自意識プレイの名目にすぎない、これらのガラクタ議論を粉砕する厳格な科学哲学を取り戻さなくてはならない。現在の都内の出版業者なんかに媚びを売るような連中には、そんなことはできはしない。ましてや暇と金に任せて哲学書を読みふけりながら論争史や用語集といった通俗本を書いている連中なんて問題外だ。もちろん僕にそれらを駆逐するような教科書が書けるとまでは思っていないし、他人のためにそういうものを書くのはやめたのだけど、少なくとも本書のようなアプローチは結論や議論の内容がどうであるかに関わらずサポートしたい。僕はデリダは好きだけど、デリダとは違って真面目腐った哲学にこそコミットしたいと思って大学院まで学んでいたのだし、いまでもそうだ。
ともあれ、本書の内容を紹介しよう。本書は、現代の学術成果や公的な出版物やメディアなどで勢力を拡大している「科学主義(scientism)」を、科学そのものではなく一種の疑似科学的なイデオロギーとして批判的に分析し、科学とイデオロギーをいかに区別すべきかを論じた研究書だ。著者は、科学主義の本質を「自然科学の特定の方法論や主張を無批判に信奉し、それを社会や文化の領域にまで機械的に拡張・普遍化しようとする世界観」であると定義している。こうした過剰な拡張は、客観的かつ開かれた対話を重んじる本物の科学的精神を損なうだけでなく、既存の不平等な社会秩序や資本主義的な現状を自然の法則に見せかけて正当化・自然化する保守的な政治的機能を果たしていると指摘される。
著者は、科学哲学における「線引き問題(demarcation problem)」の再評価を試みており、ラリー・ラウダン(Larry Laudan)が1980年代に宣言した線引き問題の終焉に対して異議を唱えている。これは、ラウダンがアドルフ・グリュンバウムの業績を記念するアンソロジーに寄せた "The Demise of the Demarcation Problem" という論文のことだ。ここでラウダンは、科学と呼ばれる活動そのものが認識論的に異質な関心や目標や基準や脈絡を含むことがらであり、それらすべてに共通していて、かつそれらのみに固有な不変の認識論的な特徴などないと分析し、それらの特徴を組み合わせれば占星術や「水への伝言」にも科学の一つの分野として受けいられた可能性があるという。僕は、この意見には「クワイン主義者」として賛成だ。科学と哲学、そして原則としてあらゆる知識や学問の分野は人が便宜的・人為的に定義したり特定しているだけの区別であって、それらに本質的な「守備範囲」だとか、或る学問が必然的にそうあらねばならなかったという客観的な根拠などというものはない。現象学は認知科学の一部として発達してもよかったのだし、分析哲学が言語学の一部として発達してもよかった。いやそれどころか、現代の宇宙論が占星術における「過激派」として展開する歴史があっても良かったわけである。
ここで議論している区別(demarcation)とは違う脈絡の話だが、僕は小学生の頃から、「科学的」という言葉を無造作に振り回しながら非科学的なことを口走っている政治家や学者を夜郎自大な連中だと思っていた。とにかく左翼というのは「あれか、これか」式の単純な敵・味方判定が大好きな連中で、そんなことに明け暮れていればあさま山荘事件など起きるのは当然だという気分があって辟易していたのだった。また、大学に入って哲学の勉強を続けていた頃も、自分自身は分析哲学や科学哲学の本(で議論されているテーマ)を熱心に読んでいたわけだが、それと同時に現象学の研究書も読んでいたし、フッセルの『論理学研究』はフレーゲの本よりも熱心に読んでいたくらいだ。もちろん、当サイトでは何度か書いているが、ハイデガーの『存在と時間』は当時からの愛読書の一つでもある。大学院でも、現象学の研究者でありながら分析哲学の勉強もしていた三村尚彦さんなどに学ぶことは多かったし(彼が愛好するプロレスの話はどうでもよかったが)、逆に「分析系」と毛嫌いしたり DIS ることに終始して、阪大あたりのファッショナブルな有名現象学者の本だけを熱狂して読んでいたような先輩には、或る種の憐憫に似た印象を持ったものだった。もちろん、その逆にウィトゲンシュタインにしか興味がないなんて人物にも、殆ど哲学者として学ぶことなどないと思っていた。僕が、一般向けの本ですら敵愾心をむき出しにするような文章を書いている渡邊二郎氏と、必ずしも支持したり表面的なバランスをとるためではなく公平に扱おうとする田島節夫氏とを対比することがあるのも、そういう「区別」そのものに哲学的な重要性や必然性などないと思うからだ。ラッセルなりウィトゲンシュタインなりクワインのこういう議論はおかしいと言えばいいものを、なんで「分析哲学はおかしい」とか「ものごとは論理では分からない」などという雑な表現を使ってマーケティングや印象操作に走るのか。
しかし本書の著者によれば、ラウダンがこのように区別の問題を無効だと宣言してしまってからの科学哲学は、科学の概念を整理するという piecemeal work あるいは概念工学に終始することとなり、その間に無批判な科学主義や、専門家による統治を正当化するテクノクラシーのイデオロギーが台頭したと論じられる。この状況に対抗するため、本書は分析的な科学哲学の議論にマルクス主義やアルチュセールのイデオロギー批判という視点を加えたり、フランクフルト学派やマックス・ウェーバーの価値自由を巡る議論を融合させる必要性を訴えている。当然だが、僕もこれら社会科学の観点を導入することには賛成だし、既にいくつかの教科書では採用されているフェミニズムの議論も有効だと思う。ただし、それ自体がイデオロギーとなってしまう恐れはあって、実際にこれだけだと単なる「左翼の科学哲学」にすぎないということになってしまう。それに、科学哲学の歴史に関する著者の理解にはやや疑問があって、科学哲学はもともと科学の理論や概念や方法の分析をもって始まり展開してきたのであって、別にラウダンの議論があろうとなかろうと piecemeal work だったし、それをよしとしてきたのではなかったか。いわば、科学哲学には存在論や認識論としての grand theory は存在しないのである。なぜなら、前者は物理学で良いし、後者は認知科学で済むからだ。こういう、出自からして科学主義的な傾向のある科学哲学について科学主義を問うことの効果を、著者は少し弱く考えすぎているように思う。ことは、この最近になって起きている話だけで済むものではないのである。そういう意味で、僕は「philsophy of science は scientific philosophy である」というライヘンバッハのスローガンを支持しているので、著者の主張に僕自身は反論をもって向き合う必要があると思っている。
僕の態度は、もちろん混乱してはいない。著者のように科学哲学に社会や政治や経済といった脈絡を持ち込んで「混乱」を引き起こすことは望ましいと思っているが、それでも僕は科学哲学を科学の基準で打ち立てたり展開するということが自己正当化でもなければ自己満足でもないと思っているからだ。つまり、僕が科学哲学にフェミニズムを採用するべきだと言っているときには、それは社会科学としてのフェミニズムを指しているのであって、科学哲学に左翼の議論を追加しろと言っているわけではないのである。