Scribble at 2019-08-29 10:44:02 Last modified: 2022-09-29 13:48:10

さきほども出勤する途中で大阪府警の前の交差点で歩行者の列に割り込まんとして強引に左折しようとしている営業車を見かけた。武士の情けで社名をここに書くのはやめておいてやるが、若造の分際で他人をレーシング・ゲームの NPC や観客、つまりは自車が突っ込んでいっても何も影響がない作り物のように思っているのだろうけれど、携帯の画面を眺めながら道路をぶらついていても他人が避けてくれるとか、他人をぶつかっても影響のない《ワタシのセカイの背景画》みたいに思い込んでるような手合いにも言えることだが、そういう思考こそ君たち自身が人間であることをやめて、車やスマートフォンの(実は劣悪なパフォーマンスの)《生体部品》になった証拠なのである。

しかも、こういうことを大阪では principal district office の前だろうとお構いなしに凡人が平気でやるし、今日はそれどころか後ろに警察車両がいた(そして、馬鹿でもない限りバックミラーで分かっているはず)にもかかわらず、権利であるかのように平然と道路交通法違反にいそしむクズみたいな連中がいるのだ。本当に大量すぎて、違法行為を非難したり率先して適法に行動する住人の方が「イキってる」と逆に軽く差別されるような実態がある(よく、非行少年グループで少しでも良心的なことを言うとリンチに遭うようなものだ)。僕は戸籍上は東京の緑が丘生まれだが、実際には殆ど大阪で育っていて「大阪人」と言われても違和感はない。しかし、いま説明したような意味での大阪人として扱われるのは、やはり group privacy の議論を持ち出すまでもなく不愉快だ。

もちろん、どういう人間でも平凡だったり善良な一面や行動が皆無というわけではないだろうし、馬鹿げた振る舞いをする全ての凡人は、凡人であるがゆえに一貫した悪事も働けない。そんな才能や矜持や厳格さや情熱など、たいていの人間にはなく、或る機会やタイミングで違法行為を働く者が、或る別の機会やタイミングでは善良な親だったり社会人でありうる。そして、こうして物分かりのいいことを書いて善悪を相対化しているように見えるなら考えを改めていただきたいのだが、皮肉にも、その一貫性のなさこそ、凡人どもが社会科学的なスケールの話として、真に危険な個体の集団だと言える根拠なのだ。

ビートたけしが流行させたとされる、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というフレーズを、40代以上はたいていの人が知っていると思う。しかし、このフレーズをカリカチュアとして描き直したイラストを幾つか見たのだが、たいていは大勢の人たちが手をつないで赤信号を渡ろうとしている情景を描いており、これははっきり言ってビートたけしの(本人が自覚しているかどうかはともかく)意図を正しく表現していないように思う。彼もそうだし、吉本隆明のような人にも言えると思うのだが、彼らは個人として「大衆感覚」というものを引き受けてみせた、或る種のパフォーマーだと言える。彼らは異なるジャンルでそれぞれ振舞っていたようにも見えるが、実際には二人とも映画監督と詩人という文芸・芸術の分野でも足跡を残していた。はっきり言うと吉本隆明の詩なんて誰も読んでいないし、ビートたけしの政治談議など誰も読んでおらず、彼らは映画監督と思想家というそれぞれのジャンルで多くの人に影響を与えたと言っていい。そして、あの二人に共通するのは、東京の下町に生まれ育ったという共通点も関連しているのかもしれないが、日本の凡俗が求めたり好むものを、彼ら自身が欲求の増幅装置みたいに振舞って提供したということだ。たとえば、北野武のヤクザ映画は、それまで高倉映画などが凡人の抑圧された暴力性やセンチメンタルな劣等感を正当化したり弁解する道具として消費されてきたのに対して、北野武はそれら日本国内だけで同情を集めてきたメンタリティを海外の人々にも伝達して見せた。よく、日本人はヤクザに同情的でけしからんという批評があるけれど、それは完全に間違っている。そもそも、日本人というのは、大阪人のように粗野な人々の代名詞のように見做されている人たちに限らず、たいていにおいて潜在的なヤクザなのである。そして、それは他の国にも言えることであり、それゆえ「赤信号~」のフレーズはポピュリズムや民主制のリスクに警鐘を鳴らしたフレーズとして、多くのジャーナリストや評論家や思想家や学者の話題に上ったのである。よって、このフレーズを戯画化するのであれば、手を繋ぐといった短絡的な描き方をするのではなく、国や地方や人々のいかなる属性にもかかわらず、誰にでも潜在的に違法行為や脱法的な動機付けはあって、凡人が理解しているルールや法律とはそんなものだという主旨のメッセージを伝えるようなイラストでなくてはいけない。そして、われわれは果たしてそういう人々の根本的かつ潜在的な危険性を簡単に批判したり矯正できるのかという話である。

僕が、"philosophy for everyone" のような活動について、刑務所や紛争地域やヤクザの事務所で同じことをやってみろと言っているのは、単純に揶揄しているわけではなく、こういう理由があるのだ。

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