Scribble at 2024-06-27 10:19:22 Last modified: 2024-06-27 10:20:37
とりわけ個人の資産として維持されているだけの物品というのは、やはり当人が亡くなってしまうと、家族が意志を継ぐだけの関心とか資産を譲り受けていない限り、このように売却されたり廃棄されて散逸してしまうのはやむを得ないことだ。日本でも、亡くなったジャズ評論家の膨大なコレクションをタモリが引き取ったという逸話があるけれど、タモリが亡くなったら次に誰が引き取るだろうか。あるいは引き取れるのかという問題は残る。ジャズのレコードなんて公共図書館や大学図書館で引き取る余裕があるところはないだろうし、ましてや個人で引き取る人がいるかどうかは全く分からない。
もちろん色々な努力は必要だろうし、公共図書館サービスを支持している僕としては、もちろん積極的に公的な予算を継続して投じるべきことだとは思う。それどころか、公文書をもっと大規模かつ大量に保存したり記録し、官僚が都合の悪い資料や帳票をテヘペロで焼却したり削除しないよう、厳重な刑罰(10年以上の懲役刑など)を設定する必要もあろう。
だが、どうしても最後の最後は哲学者として、こういう「アーカイブ」という発想に固執する偏執的なものの考え方には、踏みとどまっていくらか抵抗しておきたいと思うところがある。
自宅に幾つかの部屋が埋まるほど本を積み上げていて、科学哲学のテキストを書こうなんて宣言してる人間が言うのは矛盾しているように思えるかもしれないが、僕は書籍を始めとする記録メディアというものに過剰な期待を寄せることは軽率だと思う。デザイナーという職能が、Photoshop や Mac がなくても鉛筆1本で納品物を考案できる人材であるべきなのと同じく、哲学者も手に本や iPad を抱えることなく自らの力でものを考えられなくてはいけない。それは、必ずしも専門書を手にしていない市井のアマチュアを理想化するためではない。いや、昨今はアマチュアの方が「元ゲーム作家」とかいう経緯でプロパーよりも潤沢な資金で書籍を所有していて、なんでも長野県に書庫専用の別荘を所有する「新進気鋭の思想家」もいるらしい。もちろん、そんなことだけで国際的なスケールで業績を上げた日本人の物書きなど一人もいないわけで、西田幾多郎や京都学派を調べに来るアメリカ人なんて、アメリカでは哲学研究者ではなく一種の文化人類学者の扱いだ。そして、僕はそういう判断は偏見ではなく正当かつ正確な評価だと思う。
とは言っても記録、そして記録の保存は数十年という期間のスケールでは大切だ。これはデザインや哲学だけの問題ではない。公文書を保存することは大切だが、官僚や役人や政治家は公文書に記録されたことだけをやっているわけではない。寧ろ、敢えて記録されていないところにも目を光らせる必要があり、公文書を保存する目的は、公文書自体の価値というだけではなく、それによって官僚や政治家の行動や思考を牽制するためにあるのだ。いくら法務省の官僚が東大暗記小僧の集まりでも、自分のやることなすことを記録なしに済ませることはできない。悪事をはたらくにも、オフレコで全てやっていれば何年も経過すると必ず限界がやってくるのだ。