Scribble at 2020-09-07 10:19:09 Last modified: unmodified

オンラインの批評とか論説は、現状のままでは膨大に公開され続けて行っても学術的な効用が大して多くないと思う。その明白な理由として、何か学術的あるいは価値のある論説や記事が掲載されても、それについて書かれる批評や論説の大半は、同じ程度の見識や情報をもつ人々によるものでもなければ、同じ分野のプロパーが書く場合であろうと正式なレビューの水準で書かれている事例は少ないため、学術的な水準で言うと大半の議論が《希釈》されてしまうからだ。

多くの学術雑誌や専門的なメディアに掲載される記事や論説は、専門のライターや研究者が一定の時間と労力をかけて準備したり作成している。それを、大半の素人どころか同じ分野のプロパーであっても、ブログ記事、なかんずく Twitter のようなもので取り上げるときは、片言隻句だけを取り上げて議論を矮小化するか、あるいは全体を印象批評として雑に扱うかのどちらかになりやすい(そして、素人というものは、そのどちらかしかできないから素人なのである)。よって、書評にも同じ指摘はできると思うが、受け取ったリソースの価値を最大限に咀嚼して、なおかつ自分自身の考察なり傍証なりを積み上げるという、真の学術的な成果と言えるようなものを気軽に書ける者など、そうはいない。だからこそ、たいていのプロパーは論文を書くのに何か月も何年もかかる(長い年月がかかるのはまだいいとして、成果を出さない人も多いわけだが)。

では、学術研究者であればなおのこと、アマチュアとして CGM という名のデタラメな散逸・放置を恥と心得る見識をもつ人間であれば、最低でも自分自身にとって堅実に成果を積み上げてゆくにはどうすればいいだろうか。もちろん、一つは学術研究でも重視されるような《粘り強さ》なり執着をもつことだろう。一冊の古典について、ブログ記事一つで「まとめた」だのと吹聴しては国家のなんとか委員にまでなってしまう教育学者もいるようだが、そういうパフォーマンスしかできない無能が何をしていようと、哲学に携わると決めた者は粛々と古典を読み続け、読み返し、そして、古典を超えてゆく自分なりの思索を続けなくてはいけない。記事を書くなら、延々と同じ書物について何百と書き続けるくらいの執拗さが必要だ。ただし、哲学と呼ばれる営為にかかわるものは、本質的に言って読書人ではない(書物というものが宇宙に存在しなかったなら、哲学者はいなかっただろうか)。「祖述家」と呼ばれる場合でも、先人の見識を受け継ぐだけではなく、そこから何事かを進めなければ、厳密で正確な仕事をしたとしても、それはただのコピペであろう。そこだけを忘れない限り、古典の研究は生涯をかけて続ける価値があり、したがって生涯をかけて記事を書き連ねるくらいの意欲は維持するのが(プロパーでなくとも)アマチュアの矜持というものだ。

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