Scribble at 2025-05-30 10:32:19 Last modified: 2025-05-30 17:59:48
昨日、久しぶりに天満橋のジュンク堂で哲学の棚を眺めていると、科学哲学・分析哲学の配架がかなり減っていることに気づいた。そういう分類をする必要もなくなってきている著作が翻訳でも増えている証拠ではないか。これはこれで、もともと実体のなかった「分析哲学」というものがもとどおりに雲散霧消するのだから、皮肉なことだが思想史としてはあたりまえというか「自然」なことなのだろう。
ただし、そのかわりにジャーナリスティックというか、世俗的な話題や時勢に引っ張られて翻訳されたり出版される著作物が増えることにもなる。いま放映されている大河ドラマでも分かるように、出版という事業が基本的に営利活動であるからには仕方のないことだが、マウンティングや論破が流行ればクリシンがどうのこうのと本が増えて、最近のように自殺願望や「戦争でリセット」みたいな馬鹿が増えると、反出生主義の後追い本みたいなのが増えるわけである。もちろん、凡庸な人々が凡庸なことをやるのに腹を立てるのはアリが昆虫であることに腹を立てるのと同じ愚行であろうが、かといって他人に大学でものを教えている人間がそういうことをやっているのは、やはり文化や知性や学識としての下方圧力になるわけで、あと数十年で死ぬ立場からすれば知ったことではないにしろ、どうも割り切れないものを感じる。
当サイトで取り上げている僕のプライベートではあるが趣旨というか経緯からすれば、少なくとも生き死にに関して、箱庭趣味的な本を書いたり翻訳するというのは、どうにも納得のいかないところがある。現象学というか実存哲学や古代ギリシアの人々からすれば、分析系というのは口先のロジックばかりで「熱」や「情」を欠いているように思えるらしく、昔から学生のレベルですらそういう批評というか冷笑を受けてきているのだけど、これは理由のない話ではないと思う。僕は、寧ろそういう浪花節で哲学をするような連中こそ自意識過剰な子供だと思ってきたし、無味乾燥というか人の情なんてどうだっていいという「アンチ・ヒューマニズム」こそが哲学の本領だとすら言ってきたのだが(つまり哲学とは、人類がいてもいなくても議論できるようなテーマにこそ集中するべきなので、やはりハイデガーの意味での存在論こそが哲学のテーマなのだ。ただし、それを人類がいてもいなくても「議論」するという概念が成立するならの話だが)、もちろんそういうスタンスには限界がある。なにせ、僕は哲学者であるよりも先に(実存という意味で)人間だし、いやそれどころか哲学者であるよりも「前に」サラリーマンであるとすら言える。哲学者であることとサラリーマンであることのどちらを、いま失ってよいかと聞かれたら、僕は即座に前者だと答える。哲学者であることをやめても食ったり生きていけるが、いまのところサラリーマンを辞めると食うのは大変だ。プロパーの諸兄には気の毒だし不愉快かもしれないが、僕にとって哲学者であるとは、そのていどのことなのだ。つまり、選択可能な一つにすぎない。だって、何か別の条件があれば、中学時代からそのまま考古学の研究者になっていたかもしれないし、それがいったい何の不都合となろうか。