Scribble at 2025-05-30 13:07:15 Last modified: 2025-05-31 14:31:14

関大時代に先輩から勧められたロバート・アッシュとキャロル・アッシュの『微分積分学教程』(森北出版、1988)が名著だと思える一つの理由は、アメリカの初等教科書によくある類の、公理的アプローチを排除した構成にあろう。言ってみれば「工学部向け」(タイトルに "for engineers" などと書かれる)のスタイルと言ってもいいわけで、証明よりも計算によって概念を学ぶというアプローチだと言える。同じく、僕が修士へ上がるときに竹尾先生からいただいた E・J・レモンの『論理学初歩』(世界思想社、1973)にしても、あれは内容が記号論理学なので計算がそのまま証明でもあるが、もちろん定理を証明しているわけではない。

しかし、いずれにしても教科書のスタイルとしては両方とも望ましいと思う。僕がしばしば困惑させられる数学の教科書によくある構成は、まず最初に定義もしないまま数学の概念を使って見通しを立てるような解説を「0章」などとして冒頭に掲げるやりかただ。これは、プログラミング言語の入門書にもよくある、「Perl ひとめぐり」みたいなスタイルであり、言語のシンタクスを説明することなく「こういう目的のプログラムはこう書ける」などと具体的なコードを数十行に渡って並べるというものだ。

僕は、手持ちの知識や経験から出発して新しく定義された事柄を使って知識や経験の範囲を演習問題などを通して広げるというスタイルを好んでいるので、こういう教科書を読まされるとウンザリする。とにかく、数学の教科書に昔からある「陋習」と言うべき、未定義の用語を並べ立てて議論するというスタイルは、僕には単なるスノッブの雑談としか思えない。ましてや、未熟な教科書を書いている言い訳として、学生や無能な院生に「行間を読む」などというファンタジーを語らせて、なにか教科書に深遠な思想を書きとどめているかのような思い上がりは、許し難い。教科書というものは、ノベール賞を受けた人物が手掛けようと、あるいは「知の巨人」と呼ばれる人物が書こうと、しょせんはプロダクトであり商品でしかありえない。消費者であり読み手である学生や初心者の予備知識や動機や事情を無視して、独りよがりに書かれた文書を「教科書」として有償で販売するのは、それが大学の教材として買わざるをえないようなものであればなおさら、「教育犯罪」(教科書として強制しているなら、「教育的強要罪」)と言っていいと思う。

僕が、単なるアマチュアとして当サイトや MarkupDancing で、繰り返して大学教員を始めとするプロパーに辛辣な文章を書き続けているのは、これが理由である。自分たちが或る意味で無頓着に「犯罪」と言ってもいいほど愚劣な教育をしていることに気づくべきであると言いたい。低劣な教科書を書いて出版までするというのは、そういう意味での犯罪なのだ。

あと、犯罪とまではいかなくても、数学の教科書で非常に多いのが、まず冒頭に初等集合論の事項を並べて立てるのはいいが、後で展開されるどの章でも、集合論の概念も定理も殆ど使っていないという妙な教科書が非常に多いという事実だ。これも、最初に何か axiomatic で高等なことをやろうとしているかのようなポーズを見せびらかすだけのフェイク学術にすぎず、そんな叙述をして済ませるのは学者の態度でもなければ、まともな教科書の執筆者の態度でもない。なので、たとえば斉藤正彦氏の『線型代数入門』(東京大学出版会、1966)などは例外であろうし、最近だと渕野 昌氏の『自己隔離期間の線型代数 I』(1月と7月、2023)も例外だろう。

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