Scribble at 2023-09-29 14:59:40 Last modified: 2023-09-29 15:21:06

かつて「アルファ・ブロガー」とか言われて小銭を稼いでいた連中が、いわば斜陽コンテンツとなったブログにおいて、ブログというものをあれこれと議論するという体裁の記事が増えつつある。まことにみっともない。自意識過剰であることは言うまでもないが、それ以前にブログというものを20年ほど続けただけのことで偉業であるかのような思い上がりが、とにかく大人として恥ずかしいと思うよ。

その最大の理由は、やはり僕らのような保守の人間に言わせれば過去との対比ですぐに分かる。つまり、ブログに相当する営みとして過去に何があったかと思い出せば、別に表彰もされていなければ AdSense で数億円を稼いだわけでもないのに、昔の多くの人々は「日記」という名前のログをつけていたわけである。いや、会社の仕事として「日誌」と言ってすら良い。仕事だろうとプライベートだろうと、とにかく毎日のように自分がやったことや考えたことを書き綴るという人が世界中にたくさんいたわけであって、その中の何人かは、20年どころか文字を覚えた頃から亡くなる寸前の病床まで、半世紀以上にも渡って日記を付けていたろう。それに比べたら、文字を自分で手で書いているわけでもないパソコン野郎が、たかだか20年ほど碌でもない話を(しかも、ブロガーなんて実は1日も欠かさずに投稿してる人など殆どいない)タイプしていた程度で何を思い上がったことを書いているのかという気がするね。

もちろん、僕はそういう金儲けと自意識しか能がないブロガーとか自称してるインチキ知識人ぶったクズどもとは一線を画した水準で生きている人間なので、2017年からこういう形式で投稿し始めてから前回の投稿までで4,323本を5年近くで公開している。でも、これでもたった5年だ。生涯にわたって、丁寧に自分の手で文字を書いてきた人々(もちろん、別に文豪でもなければ東大教授や上場企業の会長とかではない、僕の母親などと同じく亡くなったら殆ど親族しか記憶していないような人々だ)のやっていることに比べたら、5年程度の落書きなんてクズみたいなものである。そして、世のクズみたいなブロガーには更に足で顔を踏むようなことを言うようだが、僕はこれだけ投稿していながら「ほぼ日手帳」に日記もつけているし、毎日父親と電話で話した内容を別の介護手帳のようなものに記録していたりするのだ。要するに、たいていの大人というものは、職業や学歴や能力のあるなしに関わらず、表に出ていないところでも現に生きているわけだし、僕らのような人材は更に成果として積み上げている。ネットだろうとなんだろうと、こんな表面的なところだけで生きていたり、あるいは勝負してるわけがないのだ。

思うに、ブロガー諸氏の自意識過剰というものは、結局はインターネット接続の普及した1990年代から後の事績でしか人のやったことを判断しない、できない(だってオンラインにソースがないんだもん)という偏見なり錯覚の結果であろう。無能やバカは、自分が無能やバカであることを自覚するための広い視野や深い見識を持っていない(もちろん、これは相対的な話であり、僕も途方もない視野とか見識に比べたら無知無教養だと言える。その無知無教養さが凡人よりもいくらかマシだというだけにすぎない)。しかしそれでも、取り返しのつかないほど愚かな人生を送らずにおくためには、自分がかつて考えたり感じたことを何かに書き留めて、それを後から自分自身で読み返すことによって顧みるきっかけにするという知恵の一つが日記なのである。そして、それはクズみたいなブロガーどもが何年おきかに書いている、「ブロガーの僕って、あたしって」みたいな公開プレイのマスターベーションみたいな記事を書くことが目的なのではない。いや、そもそも「善く生きる」などというインチキ倫理学みたいな目的という自覚もなしに続けていることだと思うが、そうしたことの積み上げを尊重するということも、われわれ保守を奉じている人間のスタンスだ。(もちろん、それは「積み上げ」だと判断できる権威を前提にしている。ヤクザが「今日は誰から1万奪った、昨日は誰を騙した」とか日誌に50年ほど書いていたとしても、日本の社会学者は喉から手が出るほどほしい記録であろうが、われわれ保守の人間はそんなものを読んだら即座に通報して豚箱へ蹴り入れてやる。)

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