Scribble at 2020-02-18 11:02:40 Last modified: 2022-09-30 18:08:50

犬を散歩させている人を見かける。だいたい、大型犬を連れている人の多くは他人の通行の邪魔にならないよう犬の進路を適正に管理していることが多いが(猟犬やシェパードのような犬を連れている場合は、マッチョな奴も多いので、偉そうに犬ともども好きなところを歩いているチンピラも多い)、小型犬の飼い主はたいてい犬を好き勝手に歩かせている。

もちろん、動物の愛護及び管理に関する法律(動物愛護法)では、障碍者の介助や警察犬などの例外を除いて、どれほど小型の犬であろうとノーリードは違法行為である。小型犬が幼児を噛み殺さない保証などないし、ノーリードの飼い主に限って狂犬病の予防注射も施していなかったりするバカである(毎年接種することが義務付けられている)。そうした、《愛犬家様》たちが休日の公園を《民主的》に支配しているのが、東アジアの辺境地域で大国から(僕が思うには、何らかの事情で敢えて)侵略もされずに放置されている田吾作国家の太平楽とも言うべき実情である。

しかし、リードを付けて犬を散歩させているとしても、それは殆ど《自分の手元から逃げ出さないようにする》ための運用であり、犬の進路をコントロールするという自覚がある犬の飼い主など100人に一人もいない。そもそも、ホモ・サピエンスと呼ばれる奇妙なサルの幼児のしつけですら、まともにやっているメスやオスの個体など殆どいないのに、別の生物を適正に管理できるなどという思い上がりはどこからくるのかと思えるほどだ。したがって、街路を歩いていても、リールのついた犬が勝手に歩くままにしているため、飼い主が歩道の左側にいて犬が歩道の右へ行き、対向から歩いてくるわれわれ人間様が犬のリールをまたいだり、犬と飼い主様ご一行を避けて車道を歩かなくてはいけないという、どう考えても法的には「器物」にすぎない生物のために、人々の心から社会道徳の観念が失われてゆくのが見て取れる。

もちろん、必要以上に道徳だのマナーだのと声高に叫ぶのは行き過ぎであるが、ペットを飼っている人間にだけ歩道を優先して歩く特権があると思わせるのは、これまたどう考えてもおかしな話である。かように杜撰なペットの飼い方をしている人々からはペットを取り上げるのが社会正義でもあり、結局は盲目的な溺愛で生物種としての異常な生活を強要されるペットにとっても良いことだと思うのだが、そういうわけにもいかないらしい。とりわけ、一部の社会学者や生命倫理学者や現象学の研究者は「ケア」などと称しており、特に高齢者にとってペットは重要な「コンパニオン」なのであるから、堅苦しいことを言わずに「多様性」を認めて「インクルーシブ」で「やさしい」社会を目指すのがよいと善人ヅラするのが最近の倫理学や社会学の流行らしい。

もちろん、お題目としてはその通りであろう。社会的な弱者が、その《社会》から要求される道徳を守ることに苦しむ事例はたくさんあるし、場合によってはそうした《社会》道徳こそが、それに対応する社会的な弱者を生み出すこともあるからだ。しかし、それは話の半分でしかない。そして、半分だけしか理解せずにものごとを押し進めているのが、人文・社会科学者による(弱者への、ではなく「弱者の側に立つ」と自称する)社会正義のような権威とかルールに対する《バック・ラッシュ》である。僕は、もちろん弱者をサポートしたり、弱者に配慮することには賛同するが、できそこないの無能な学者どもが実際にやっていることは、単なる逆差別である。つまり、弱者こそが特権階級であり、弱者こそ世界を支配するべきなのだと言わんばかりの傲慢な振る舞いを放任しているにすぎない。これは、はっきり言って社会防衛の喪失であり、道徳や責任感の放棄に等しい。たとえ高齢者が死にゆく運命にあるとしても、社会道徳や社会正義に反していいとは思わないし、僕は《社会》などという凡人の集団に許容されながら自分自身の不道徳をかかえて生活し続けようとも思わない。

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