Scribble at 2024-02-12 23:46:48 Last modified: 2024-02-13 14:11:34

山畑古墳群のサイトでは、当サイトで公開している「JavaScript の生い立ちを探る」という論説と同じように、参照先の文章を段落単位で引用して集めることにより、参考文献表を実質的な資料集としてしまう方針を採用したい。本来、参考文献表に参照箇所の文章を引用するというのは例外的なことだ。しかし、参照先のページが古くて無くなる可能性があったり、あるいは大学のページで頻繁に起きるディレクトリ構造の無意味な変更(単に管理を請け負うウェブ制作会社が変わって、官僚と同じく仕事をしたという既成事実をつくるために、しばしば大学の事務方というのは無意味なことを要求する)によって URL が無効となったりするため、或る種のアーカイブみたいな役割を参考文献表に持たせたい。

実際、考古学で参照する文献の多くは、いまでこそ PDF をダウンロードできるサイトがあるけれど、発掘調査報告書なんて簡単には手に入らなかったものだ。したがって、僕が参照している書籍や文書が誰でも簡単に読めるとは限らないなら、やはり参照している該当箇所を引用しておいて、もっと大きな脈絡は理解し辛いかもしれないが、最低限の理解は得られるようにしておきたい。

たとえば、『大阪の古墳』(石部正志/著、大阪文庫、松籟社、1980)という新書サイズの著作物は、大阪でも一部の公共図書館にあるていどの珍しい本だ。いまならアマゾンで古本が買えるけれど、いつまでも買えるとは限らないし、公共図書館から除籍されると、恐らく国公立大学の図書館か国立国会図書館でしか読めなくなる。僕はそういう特殊な条件でしか読めない著作物に頼るしかない論説などというものには、どれほど具体的な背景や根拠が文献表に列挙されていようと信頼が置けない。明らかに検証するのが難しい典拠でしか議論できない場合は、やはり可能な限り参考にした該当箇所を引用するのが公にものを書く人間の礼節だと思う。ソースを隠したまま他人の検証を難しくして何が嬉しいのか。それはつまり、嘘をついているか、典拠の扱いがあやふやであることを誤魔化したいだけであろう。

それから、JavaScript で思い出したのだが、ウェブ・ページで記載する解説等の文章に出てくる用語については、記述の全体をシークして、あらかじめ用意したキーワード DB にヒットする語句について、ポップアップかサイド・バーに用語解説を表示するようなスクリプトを採用したい。こういう用途であれば JavaScript にも活用の余地があろう。ただ、サイド・バーへ固定して表示するのであれば、JavaScript でなくとも PHP で出せるため、実装方法は未定だ。コンテンツをどう提供するのが妥当であり、そのためにどういうレイアウトを設計するかによって実装は変わる筈だ。申し訳ないが、こっちはその辺に一山いくらでいるような、ものごとを逆向きに(どういうテクノロジーを使うとナウくて、自己承認欲求を満たせるかということから)考える無能な情報アーキテクトやデザイナーとは次元の違うデザイナーなんで、当たり前だが、読む人にとっての利益と、伝えようとするコンテンツを余さずに伝達することが最優先だ。結局、アクセシビリティであろうとユーザビリティであろうと、こういうところから引き出されている発想なのであって、何が重要であるかという点は同じである。

確かに、哲学的には素朴な想定に立脚している発想には違いないが、逆に洗練されていて高度な想定をもっていようと、現実のプロダクトや成果を出さなければ、そんな高度かつ難解かつ深遠で洗練された想定をどれほどウジウジと考えていようと、しょせん何も考えていないのと同じであろう。学者はもとより、アマチュアであっても、業績こそが自分自身の向上や学問の進展を少しでも促すのである。そして、成果が業績として積み上げるに値すると認められるためには、当たり前のことだがアマチュアであっても成果を出すことが必須である。素朴な考え方に立脚していようと、成果を出したものだけが評価に値するのだ。

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