Scribble at 2024-05-04 07:25:31 Last modified: 2024-05-05 07:51:46

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【読書感想】なぜ働いていると本が読めなくなるのか

僕は、このブログ記事の筆者に言いたいことはないんだよね。個人のブログで公開されてる記事というのは、もともと筆者当人の log or journal なんだから、自分自身のプライベートな話を自意識というスタンスで書くなんてのは自然でもあるし当たり前だと思う。でも、ここで取り上げられている『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)という本を書いてる人には、ちょっと言いたいことがある。

当サイトでは何度か書いているけれど、この国で出版やマスコミの業界で報道だとか出版だとか、要するにマス・コミュニケーションやジャーナリズムに関わっている人々の大半が、海外とは違って基本的な素養を身に着けていない素人集団なんだよね。もう少し端的に言うと、マス・コミュニケーション論や社会心理学などという関連分野の博士号どころか関連する学部すら卒業していない人たちが、他の企業と同じく一山幾らで一斉に新卒採用されて、各部署の編集部で徒弟制度のように実務だけを仕込まれて記者だとか編集者とかになる。なので、一般論とか建前とか体系的な知識なんてものは身につけておらず、各社で継承・共有されている実務の技量とか情報をもってして専門家を名乗っているわけだ。事実、僕自身が神田神保町の出版社で雑誌編集者として働いていた経験があるし、他の出版社の人たちとも神保町の界隈で色々なことを見聞きしたときに感じた実体験からも言っている。僕が勤めていたのは音楽雑誌の出版社だったが、編集者は全員が音大やマスコミ専攻出身どころか、音符は読めない、楽器は扱えない、クラシック担当のくせにドイツ語もフランス語もイタリア語もロシア語も知らない、音響機器に関わる基本的な物理も知らないという人ばかりだった。そして更に、基本的な編集用語(「逆版」とか「トルツメ」とか)も知らない、編集の実務としても素人同然の人だってたくさんいたのである。

これの何がいけないかというと、もちろんだけど新聞社の記者は「新聞に記事を書くということ」、あるいは出版社の編集者なら「本を出版すること」というアプローチでしか "publication" や "communication" の方法を思いつかなくなるわけだ。よって、本来なら色々なアプローチがあって、利用できるものは目的やオーディエンスの状況によって適切なものを選ぶ能力もマス・コミュニケーションには必要なのに、それぞれ配属された媒体で何をするかという発想しかできなくなる。もちろん、これは電通や博報堂で「テレビ局」やら「新聞局」といった媒体ごとに配属されてしか仕事をしていない、広告代理店の諸君にも言えるだろう。こういうことが一つの国家という規模で何十年も続けられていくと、一般人の思考もマス・メディアから強い影響を受けるので、似たような思考になって、それを反省したり疑問視するための機会や視点が欠落したままとなる。そうやって、上の記事で紹介されているような本が何の疑問もなく出版されるわけである。でも、こういう本って冷静に考えるとおかしいんだよね。なぜなら、この本は、「もっと本を読むにはどうすればいいか」という、本来の読書とは関係ないメタ議論の本を読む余裕がある人しか買って読まないからだ。

つまり、こんな本をわざわざ買ってまで読む時間とお金がある時点で、この本の読者は著者が本当に訴えるべき相手ではないのである。こんな矛盾した出版事業を著者も編集者も、そしてこういう本を取り上げる書評ブロガーなども疑問に思っていないという事実こそ、この国の出版や報道というのが、本を出版したり何かを報道して伝えている相手のことなんてなんにも考えてない自意識の垂れ流しでしかないということの証拠だろうと言いたい。

もっとスケールの広い社会科学という視野に立ってみれば分かるかもしれないが(大学の教養課程で色々な分野を一定の数で必修科目として勉強させられる理由とか、学ぶ効用というのは、こういうスケールの大きな視野を身に着けることにある。打ちひしがれてはいけないが、自分がいかに無知で未熟であるかを自覚することは、学問でも仕事でも、そして人として生きるためにも重要な経験だ)、本を読む機会が減ったとか本を読まない人たちに向けて、messaging として何かを訴えたいと本気で願っているなら、本を出版するだけでなく、それこそ街中にあるデジタル・サイネージを利用するとか、ラジオ番組で語ってもらうとか、Vtuber と協力してキャンパーンを張るとか、もっと効果的かもしれない方法なんて幾らでもある。それが、この国で読書とか知識とかに関わってる人たちというのは、マス・コミュニケーションの効果的な手段の選択なんて思考が欠落していて、その代わりにあるのは「大出版社から本を出版している『文化人』や『知識人』の僕って、アタシって」という自意識だけなんだよね。だから、こういう本のような、社会科学的な効用や影響力という指標で見積もれば、殆ど絵日記と言ってもいいような愚劣なものを出版して誰かにメッセージを届けたとか、あるいは「啓蒙活動に携わった」なんていう思い上がったことを考えるようになる。そして、その末に何とか協会の会長だとか資格団体の王様とか大学講師とかになるのが、こうした連中の「ゴール」というわけである。もっと言えば、棺桶に片足を突っ込んだ頃に、筑摩書房や岩波書店から全集や著作集を出してもらって「知の巨人」とか帯に書いてもらえば、物書きとしてのキャリア・パスにおける最高の栄誉になるのだろう。

単純に海外の方が良いとか正しいなんて言いたいわけではないけれど、この国でものを書いたり啓発活動に携わっている人々というのは、ちょっとコミュニケーション全般についての見識が狭くて未熟すぎるという気がする。そして、その簡単な理由として、やはり専門的な教育を受けた人が業界に少なすぎるという事実を指摘できる。少し早めに起きて、寝床で Feedly から上の記事を眺めていたのだけれど、ちょっとこれは酷いなと思って、朝早くから落書きを書いてしまった。

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