Scribble at 2020-08-12 10:48:35 Last modified: 2020-08-12 20:06:01

日本語では、「もっと」「ずっと」「○○よりも」「遥かに」「□□のほうが」などの言葉が、ヨーロッパ諸語の比較級に相当する表現を構成するのです。英語の比較級の「bigger」や「smaller」に一対一で対応する日本語は存在せず、存在しなくても誰も困らないのです。

「より大きい」の「より-」って何?

僕も少しは翻訳をしているので、上記の指摘は僕もたびたび感じていることでもある。翻訳の評価について、語句を一つずつ日本語に置き換えるような手法を、何かと言えば「厳密」だの「正確」だのと褒めたたえる向きもあるのだが、僕はそんなことは大して評価するべきことではないと思う。寧ろ、そのように厳密な分析を経た文章表現の読解というものは、言ってみれば翻訳の《下準備》というべきものであって、翻訳の文章はそれを元に《日本語として論旨を正確に表現する》ことが肝要なのである。よって、そういう下訳に相当する文章を翻訳と称して公表し、しかもそれを厳密だの正確だのと評するのは、はっきり言えば翻訳というものを完遂できない(こう言っては気の毒かもしれないが)無能な人々たちによる出鱈目な内輪褒めにすぎない。そういう人々に限って、日本語として論旨を正確に伝えようと苦心して書かれた翻訳を、気軽に「意訳」だの何のと評しては、まるで原書を片手にメモ書きか同時通訳の記録をそのまま印刷したかのような雑な仕事だとでも言わんばかりの、不当な評価を下して得意になっていたりするものだ。

陸上競技の選手が "I would like to try this jump once more." と言った場合に、「もう一回、跳びたいよ」と訳せばいいものを、英語を使って生活したこともなければ英語学や言語学の素養もない連中が口にする「厳密さ」とやらに従って、「私はこの跳躍を、あともう一回は試したいと思う」などと訳しては、まったく当人の意欲が伝わらないのは明らかだろう。つまり、その場の状況を考えたら、もっと短く "Please let me try again." とか "Give me a chance again." と言えばいいことを、どうしてこんなに回りくどく教科書的な言い回しをしたのかという心情を考えてみれば、この回りくどい表現をとつとつと喋ることによって「あともう一回!」という気分を丁寧に、確実に伝えようとしていることが分かるのではあるまいか。こうした推論を軽視して、語句をまるで一対一対応できるかのような、哲学的にも受け入れられない前提をもとにして翻訳の是非を論じることは、現今においては論外と言いうる。もしそんなことが英文解釈や翻訳実務の骨子なのであれば、それこそ5年以内に AI が簡単に凌駕する成果を出すだろうし、現に技術文書など幾つかの分野ではそれでよいという割り切りで AI が翻訳家のサービスを無効にし始めている(そして、僕らはいくら技術文書であろうとロクでもないものを押し付けられる)。

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