Scribble at 2024-05-30 19:41:53 Last modified: 2024-05-30 20:09:28

概説を書くという場合でも、これまで書かれてきた概説なり、これから書かれるであろう概説に期待しているところもあって、たとえば名古屋大とかは面白い本を出す財務的な余力があれば、日本科学哲学会の有志を集めて『論理学をつくる』くらいの分量があるテキストを出してくれてもいいのになぁと思うんだよね。俺がビル・ゲイツ、とまではいかなくても資産に余裕があれば、その費用として数億円を寄付してもいいと思ったりするわけだよ。だって、俺みたいなアマチュアが何年もかけて胡散臭いものを出すよりも、とりあえず良さそうなものはできるだろうし。何度も言うけど、僕は権威主義者なので、ふだんは小馬鹿にしたようなことを書いていても東大教授の方が偉いに決まってるんだよな。博士の学位すらもってないアマチュアなんかよりも。でも、だからこそ権威に見合った成果を出さない人間には厳しいことを言うわけで、僕の権威主義というのは権威をもっている人間にとって最も厳しいんだよ。権威に釣り合わないことをすれば、即座に cut the neck off していいという権威主義だからね。

でも、資金を出すからには条件があるわけで、これは introductory な本であれば当たり前のことなんだけど、海外のテキストを見ても、はっきり言って力不足の感が否めないので強く求めたいところがある。それは、すごく単純な話なんだけど、まず哲学として何か課題やテーマや関心があり、そしてそれを科学について考えたり学ぶことで、正確に理解したり誤解を避けられたり、もっと言えば一部でも解決できるという期待があるからこそ、「科学の哲学」をやる意味があるわけだよね。そしてそれゆえに、文学部哲学科の学生でもヒルベルト空間論とか確率微分方程式とか classification theory とかを勉強しなくてはいけないという建付けになってる筈なんだ。ここを説得力をもって、しかも事例を示して解説できない限り、そんなものは科学哲学の概論とは言えないんだよ。

つまりだな、「科学」という言葉は19世紀から使われるようになって云々みたいな蘊蓄を並べたり、あるいは科学哲学には確証理論だ、説明理論だ、帰納の正当化だ、意識のハード・プロブレムだ、反事実的条件法というトピックがありまして、みたいなことを書いているようでは、はっきり言ってゴミクズということである。その手の話が科学哲学であるという自意識は、ファン・フラッセンが1980年の有名な著書で「自己目的化」と呼んで吹き飛ばした筈なんだよね。

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