Scribble at 2024-05-30 18:18:06 Last modified: 2024-05-31 07:45:43

科学哲学のプロパーが直に読むと語弊があろうかと思うので、敢えてこちらで書いておく。

このところ、或るていど僕自身の時間や才能やお金というリソースを集中して割り当てるために、ただの興味だけで読んでいた本とかジャンルは手放そうという話を続けている。そして、これまでに手放す予定のテーマを色々と紹介しているのだが、そろそろ「黒人差別」というテーマについても見切りをつけようと思っている。

僕が黒人差別について書かれた本を買ったり読んだりしている理由は、もちろん差別全般についての社会科学的な関心や、もっと素朴な正義感のようなものもあるにはあるが、やはり公式には「アメリカの思想」を理解するためということになる。なんでいまだにアメリカの大学では科学哲学の教員に殆ど黒人がいないのか。もちろん、日本だって科学哲学という分野は、専門の学科どころか教養課程で教える教員についてすら女性が少ないといった指摘はできるし、これは殆どの国で同じことが言えることだろう。そして、とりわけ公民権運動からこのかた、科学哲学のプロパーであっても政治的なカマトトではいられないアメリカで、これだけの偏りというか歪みが継続してきたのには、やはり一部の人々が言っているような、アメリカの科学哲学はランド研究所などと共に軍需産業の片棒を担いできた WASP 優勢下の冷戦イデオロギーの学問にすぎなかったのではあるまいかという印象が拭えない。

そして、いまだに同じような状況は続いていて、科学哲学や分析哲学を修めた、ハーヴァードや MIT で博士号を取ったような者でも、IT 企業の「インハウス哲学者」などとおだてられて、アホ丸出しで産業なりオンライン・ビジネスの正当化に利用されているという現実がある。これはまことに、科学哲学などと偉そうに言っていても、その実は計算が得意なだけの、思想的にはお坊ちゃんやお嬢ちゃんの概念遊びにすぎないとしか言いようがない状況である。もちろんこういう未熟な連中にも、ネット・イナゴ的なアグレッシヴさという利点はあるのだけれど、やはりもう50歳を越えた年齢の人間として眺めると、その単なる年齢的な若さというだけではない、知性における未熟さという意味での浅薄さはどうにも耐え難いものを感じる。その数式や論理式や言語分析や概念分析で、実際のところおまえら何が分かるの? という気分しか無い。

そういうことからすると、もうそろそろ僕は "philsci.info" という自分のサイトのドメインもどこかの学術団体で使ってくれるように返却して、科学哲学 (philosophy of science) の研究者であることから離れなくてはいけないのかもしれない。でも、僕はこういう「偏向」とは違う別のアプローチなりスタンスに魅力を感じているからこそ、いまでも「科学哲学を専攻するアマチュア」として公に意見を述べているわけである。それは、scientific philosophy としての子供じみた自然主義でもなく、産業の手先としてのプラグマティズムでもなく、あるいはアメリカのキリスト教原理主義におもねる科学哲学でもない、いわば「第四の道」とでも言えるようなアプローチである。

ともあれ、そういうわけで黒人差別は重大なテーマではあるけれど、僕自身の哲学にとってはどうだっていい話ではある。つまりアメリカという地域に特有の特徴なり経緯なり偏りを理解して、科学哲学における制約なり限界を括弧に入れる(あるいは脇へ置く)ために黒人差別を理解するというのは、あまりにも間接的だし、哲学的に言って大きなインパクトがあるかと言えば、そういう見込みも立たないわけである。逆に言えば、アメリカの大学で半分の教員が黒人になったからといって、彼らの科学哲学が事象そのものを的確に理解したり定式化したり議論できるのかと言えば、そんなことはありえないわけだ。黒人だろうとネイティブだろうとヒスパニックだろうと韓国系だろうと、正当に評価されて研究職に付けるようになれば望ましい。でも、それは哲学としての成果なり業績が増えたり向上したり進展するということと、はっきり言って殆ど関係がないと思う。もちろん、こんなことは大学を出なくても分かるような話なのだが、少なくとも以前の僕は黒人差別を理解することで、アメリカの科学哲学における限界が理解できるのではないかと思っていたのだった。でも、哲学におけるそういう限界は、もういまでは些末な限界だとしか思えない。

それからもう一つ。これまで古い本から最近の本まで100冊くらいは黒人差別に関連する本を読んでいるが、正直なところ僕の印象は「金太郎飴」でしかない。何を読んでも同じ印象しか受けない。その多くは一般向けの本であるから、内容が平板で浅薄なものとなるのは或るていど避けられないにせよ、思想的なインパクトを受ける記述とか切り口とか解釈とかがなんにもない。50年前の本であろうと昨年に出版された本であろうと、思想として僕の考え方やものの見方に、最初の頃に読んだ猿谷要氏らの著書と比較して何の積み重ねもできないわけである。加わるとすれば、日本の社会科学によくある、ああいう事例もあればこういう事例もあるとか、ああいう人もいればこういう人もいるという、短絡的でジャーナリスティックな事例の積み上げだけだ。そして、そういうものを単にたくさん知ってるとか、たくさん集めて本にしてる僕ちゃんが偉いというのが日本の社会学だ。もうそんなことに大人が時間やお金を使う習慣はやめなくてはいけない。これは、僕がいつも言っている、ただのバケツ・リレー的な情報処理を学問や読書だと錯覚している、実はゼロを単に延々と足しているだけの「空演算」である。

あと、これは社会科学全般に通じると思うのだが、日本については大昔から各論ばかりで、海外についても大昔から通論ばかりが出版される傾向にあるんだよね。だから、いつまでたっても日本語で Nat Turner についてのまともな研究は読めないし、日本の部落差別に関する体系的な本も読めない。つまりは、海外だと現地の政治的・土俗的な脈絡が理解できない人がものを書くので、教科書的に歴史をなぞる通論しか書けなくて、国内においては逆に政治的・土俗的な駆け引きの中に放り込まれてしまうので、個別特殊的なケース・スタディみたいなものしか書けなくなるのだ。でも、僕はどちらも原因や限界ははっきりしていると思う。つまり、どちらにしても現地の政治的・土俗的な脈絡を理解する能力に欠けているか、あるいは国内のそうした脈絡に打ち勝つ強いスタンスを持っていない、要するに無能かヘタレしかいなくて、社会的な弱者について安っぽい正義感をセンチメンタルに語るか、あるいは奇抜さというパフォーマンスに訴えて常識を問う的なちゃぶ台返しの通俗本を書いてさえいれば食っていけるというのが、現今の日本の社会科学ということになる。あとは、せいぜい数学的にレベルの低い話をちりばめて、なにやら付け焼き刃の「理系様」にでもなったつもりの稲葉某みたいな連中くらいだろう。こんな連中の書くものは、殆どそのへんのルポ・ライターの書くものを読むのと大差ないわけで、あとは古典の翻訳(それでも怪しい翻訳があるにはあるのだが)を読んでおけばいいというのが僕の実感だ。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る