Scribble at 2024-10-18 12:53:54 Last modified: 2024-10-18 14:10:29

Google の NotebookLM が正式にリリースされたことで、論文の論点を相互に比較するといったことが非常に楽になった。また、論文の内容をもとに二人の人物が会話するという音声データを出力できるので、下手なポッドキャストを聴くよりも有用だ。確か、BJPS だったか Aristotelian Society だったかが論文を題材にしてポッドキャストを不定期に配信していたはずだが、もうあんなことはしなくてもいいんじゃないか。

いま、手始めに "multiple realizability" について幾つかの論説を NotebookLM に「食わせて」から、論点を比較したり AI を相手に議論しているが、この手の(僕としては結論が最初から見えている)話題は話を展開しようとすると何ステップも経過しないうちに identification なり equivalency に関わるメタフィジクスになってしまうので、実はさほど込み入った議論にはならないところが残念だ。実際、日本では殆ど手がつけられていない話題だと思うが、realizability の基準がなんなのか分からないし、はっきり言えばたいていの realizability の議論は比較対象に関する論点先取の山で、どうしようもない。たとえば、シリコンとヒトの脳とを比較するのであれば、それらがどちらも「精神状態」としての比較だと言ってる時点で、その議論って終わってるよな。寧ろ、そういう連中は multiple realizability よりも先に、脳やシリコンがどちらも精神状態という比較対象になりうるための realizability について立証すべきではないの。

つまり、こういう議論にいつまでも拘泥していると、かたや「科学哲学なんて言ってるけど、きみらはもっと『科学』を学んだほうがいいぜ」と言われるだけではなく、他方で「科学哲学なんて言ってるけど、きみらはもっと『哲学』を学んだほうがいいぜ」と言われかねないんだよね。そうすると、どちらについても素養が欠落している言い訳として、よく科学哲学という学科の説明としてアマルガムだなんてことを言う人がいるわけだけど、僕はまったく不見識だと思う。科学哲学はどう考えても哲学なのであって、科学と哲学の中間だの混合だのという意味不明なことを言ってるから科学者にも哲学プロパーにも、そして一般人にも誤解されるのだと思う。

multiple realizability が形而上学的に真であることに価値があると考える人の意見としては、心脳同一説への反論になるというだけではなく、心の多様性も保証することになるというものがある。これは、日本人が陥りやすいセンチメンタリズムのことではなく(「いろいろな心持ち」などというマスコミや文学の表現に代表される、敢えて差別語を使うが女々しい議論のこと)、ヒトが感じたり思い描く精神的な反応だけではなく、他の色々なパターンや内容がありえるという考え方だ。簡単に言えば、喜怒哀楽などという雑な区別だけでなく、もっとたくさん1万種類くらいの感情のパターンがあってもいいではないかというものだ。これは、この議論だけを取り出せば興味深い。でも、coginitive closure の支持者である僕には、可能性の議論ができるだけであって、全く実証しようがない。そして、こういう感じではないかなどという、分析哲学者がお得意の馬鹿げた思考実験すら、それはただの偏見の投影にすぎないと思う。(一般論として、僕が思考実験とか雷に打たれたオヤジとか色盲科学者の話とかが嫌いなのは、そういう set-up によって概念や議論そのものが固定されたり歪められると思うからだ。そういうものは通俗本を書くような連中の玩具であって、「バカ専用」なのだ。)

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