Scribble at 2026-09-24 18:54:37 Last modified: 2026-09-24 18:58:55

あからさまに「科学哲学者」とか「科学哲学の研究者」を名乗っていた者として、こういうことを言うのはおかしいのかもしれないが、僕は「自然法則」とはつまるところ「なりゆき」みたいなものだと思うんだよね。よくわかんないけど、そうなってるものだとしか言いようがないことなのだ。何かの理(ことわり)があるのだろうとは思っていて、そういう意味では単純な現象論で済ませようというわけではないのだけれど、かといって「実体」とか「実在」と名付けているだけの、よく分からないことを、さも分かっているかのように語ったり考えるのも妙な話である。同様に、「自然法則」と名付けたくらいのことで、それが具体的にどういうことなのかを分かってるかのように考えたり語るのは憚られる。ましてや、特定の数式で表せるとか、いやそもそも有限個の記号で表せると仮定することすら、根拠のない思い込みである可能性もあろう。僕が、なんだかんだ言ってもテグマークの "mathematical universe" というコンセプトにコミットする気がしないのは、それが理由である。とはいえ、"cognitive closure" 仮説を支持しているのだから、当然と言えば当然なのだが。

なので、修士の学生だった頃に竹尾先生から指摘されるまでもなく、僕はどちらかと言えば認識論を優先させるアプローチをとっていたのだろう。しかし、認識論か、それとも存在論かという優位性の争いは疑似問題であるという主張に落ち着いたという事実からお分かりのように、僕らを取り巻いていて僕ら自身が意識をもって経験している現実というのは、そういう対立を最初から突き放しているわけであって、言い方は難しいが「実存」とはそういうものだろう。また、その後に展開する「言語」や認知能力もまた、発生論的な順番から言ってもそうなのだが、最初からわれわれ自身が自分の「生」を経験する状況とは一定の距離がある。そして、おそらくはこういう思考を繰り返したり展開しているうちに、僕らは自分自身の死であるとか、自分が置かれている状況というものを無視したり軽視するという習慣みたいなものを身に着けるのである。よく、哲学とは死の準備であると言われたものだが、そういう作為的な気晴らしというか、方法論的な無頓着に陥ることで、色々な想像から生じる不安や強迫観念を解消しようとしてきたのであろう。

そういう意味では、存在論であろうと認識論であろうと、「哲学」というのはロクなもんじゃないという気がする。やはり、僕らのように必要があってやるしかないと思っている者でもなければ、東大の文IIIに入学したとか、高校時代からフランス語の本が読めるとか、そんなゴミみたいな理由で無能が哲学に携わるものではないと言いたい。

  1.  
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る