Scribble at 2023-09-23 23:26:53 Last modified: 2023-09-23 23:45:00

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中根千枝『タテ社会の力学』(講談社学術文庫、2009)

言葉だけは子供でも知っている(僕らも小学生の頃には新聞や雑誌で眺めて知っていた)のに、結局は著者が後続の著作物で手を尽くしても全く議論の内容が普及したり正確に理解されなかったという、かなり悲劇的な事例が「タテ社会」という語句だ。僕が2年ほど前に丁寧に読んだ『ブルーオーシャン戦略』にしても同じことが言えるけれど、大半の人々は実際にはこれらの語句が使われた原典なんて読んでいないのである。日本のサラリーマンは、おそらく10人に1人くらいは『ブルーオーシャン戦略』を買っているかもしれないが、実際に読んでいる(読めている)のは10,000人に1人くらいだろうと思う。零細企業だろうと大企業だろうと、そもそも会社で役職や事業を担ってもいない人間が『ブルーオーシャン戦略』を読んだところで殆ど実感もないだろうし、書かれている内容の意味も殆どわからないだろう。

これと同じく、著者が本書のような後続の著書でどれほど「タテ社会」という概念を丁寧に解き直してみたところで、この本そのものを読もうとする人がいないわけだから、どうしようもない。もとより大半の読者というのは、自分の理解が正しいかどうかを検証するために本を読むなんていう、学者のような動機や習慣なんて持っていないし、それを持つべきだなどと言うのは学者と出版社の傲慢でしかない。よって、最初に書かれた本において、世間で浅薄でデタラメなフレーズとしての「タテ社会」をぶちまけたのが新聞記者なのか雑誌のライターなのかは知らないが、著者は世間の無理解や同僚の誤解を嘆くよりも前に、そういう人々に「餌」を与えてしまった失敗を反省しなくてはいけなかったのである。通俗本を、別に世のため人のために本を出版しているわけでもなんでもない商業主義の出版社から出すということは、そういうリスクを負うということなのだ。

なお、著者は本書で静的な現象として「タテ社会」という名前をつけるだけならバカでも(それこそ社会学者でも)できるのだから、そういう社会のダイナミックな特性も説明しなくてはいけないというのだが、僕にはまったく説得力が感じられなかった。或る A という状態を B という状態と並べて説明し、そこに名前をつけているだけにしか思えなかったからだ。これでは、静的な分析の結果として「出来事や状況に名前を付けているだけだ」と揶揄される社会学者の仕事と変わらない。

よく、「動的」とか「ダイナミック」という言葉を使って、何か「静的」な概念よりも素晴らしい上位の理論を示しているかのような錯覚に陥る人々がいて、特にポモが流行した1970年代移行は、科学哲学でも「パラダイム転換」だとか "theory change" といったフレーズで、それが何か論理実証主義の形式的な定式化を凌駕する概念なり理屈なり物事の捉え方や理解であるかのように吹聴されていた、まことに軽薄な時代があった。「新科学哲学派」などと呼ばれて、フーコーを始めとする歴史に焦点を当てて思想史を叙述したフランスの人々を引き合いに出して、或る種の「モード」みたいなものを科学哲学に持ち込んだ人々がいたわけである。しかし、そんなことをして物事の理解や分析がどれほど進んだのかというと、「ああいう事例もあればこういう事例もある」という、ルポライター同然と言うべき悪い意味の社会学が流行しただけである。そんなものを個々に紹介しても、われわれの理解は何も進まない。

なお、その頃よりも前からだったが、ちょうどそういうものが流行して、科学哲学の論文からは論理式(による定式化の分析)がどんどん消えるという現象も起きた。そうして、科学哲学は分析哲学という別の流行から離脱したわけである。いまや、科学哲学は「分析系」とひとまとめにしては到底語れないような分野になっており、科学哲学で言語分析なんてことをやる人は殆どいなくなったし、学部の演習や授業でウィトゲンシュタインを読むなんて学生は英米圏でも殆どいないと思う。

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