Scribble at 2022-09-07 21:30:52 Last modified: unmodified
この前から購読し始めた The New Inquiry で冒頭の記事から読んでるんだけど、この冒頭の記事からして陰鬱な気分にさせられる。つい先日も、同じくアラバマ州にある Mountain Brook という町の高校が正式にナチスを礼賛する教育を始めたり、生徒に片腕を高く上げる敬礼を求めたり、その事実をソーシャル・メディアに公表した者を処分するという、信じ難い出来事が進行している様子が伝えられていたのを見たばかりである。いくら日本会議や高市早苗代議士が頑張っても、日本で故安倍晋三氏の銅像を正門に飾り、朝礼で祝詞を奏上したり教育勅語を暗唱する高校が設立される可能性は低いだろう。
一説では、アラバマ州に生まれ育ったハーパー・リーが書いたとされる『アラバマ物語』は、もともとは人種差別主義者としてのアティカスを主人公にした「続編」とされる『さあ、見張りを立てよ』の方がもともとの原稿であり、それをニューヨークの編集者に〈善い話〉へ書き直させられて多くの人々が知る「正義の物語」に変質したと言われたりする。また、そういう経験に加えて、同郷のカポーティが傲慢で退廃的な人物へ転落していく様子を眺めていたこともあって、作家として生きる先行きに失望して何も書かなくなったのではないかとも言われている。出版や報道なんて口先では啓蒙だの事実だのと言ってはいても、しょせんは売文家どものプロモーターにすぎなかったり、風評を煽って媒体を唯一のソースであるかのように売りつけるマッチ・ポンプの扇動ビジネスだったりする一面もある(そして、いまでは一面どころか、そうでない面を見つける方が難しい)。
逆に言えば、アラバマにそんな正義の人や正義が行われる素地なんて、21世紀に入っても醸成されていないのではあるまいか。当サイトでは何度も言っているが、アメリカはあらゆる差別研究の最前線である。それは、はっきり言えばアメリカの社会科学者が優秀だからではなく、アメリカがあらゆる差別の最前線だからなのだ。黙っていても周りで頻繁に差別が起きるため、色々な差別を知るチャンスが研究に必要であろうとなかろうと関係なく、毎日のように押し寄せる。理屈なんて適当に経験をまとめているだけでも出来上がってしまうのだ。そして、周りで頻繁にテストしたり対抗するチャンスもあるため、理屈そのものが学者の生活において自然と鍛えられる。日本で堂々と他人を差別する集団を見つけるのは難しいが、アメリカでは簡単なのだ。