Scribble at 2023-10-18 08:24:01 Last modified: 2023-10-18 08:57:22

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チャカさんの失踪は昭和 37 年(1962)8 月 10 日の朝日、毎日、神戸新聞各社の朝刊に大きく報道された。神戸新聞特派員である壇上隊員がこの第一報を神戸大学に送った。神戸大学は神戸新聞と共同で南太平洋学術調査隊をマルケサス諸島に派遣していた。学者 3人組の高木、石川、杉之原隊員たちは先遣隊としてマルケサス諸島のファッツヒバ島に先に赴き神戸新聞記者壇上、福本および梶木ドクターはタヒチで取材活動をつづけていた。このタチヒ残留組に船会社から「高木隊員が 8 月 6 日午前 4 時半ごろ突然汽船から姿が見えなくなり行方がわからなくなった。船ではあらゆる方法で捜索に努めたが、発見できなかった。」との連絡が入った。この当時、タヒチ-日本間の電話回線は通じてなく、タヒチ-現地間は船の無線以外に通信方法がなかった。タヒチ残留組もこの情報の信憑性がつかめず、必死になって船会社に詳しい情報をもとめた。

上記は「『高木先生を偲ぶ会』世話人」(神戸大学山岳部 OB 有志)が2011年3月9日に発行した『チャカさん・高木先生を偲ぶ ― 登山家 高木正孝 没後 50 年 ―』という文書からの引用である。こういう記述を眺めていると、誰から聞いたのだったか、「神戸新聞と神戸大学は仲が悪い」という噂なり寸評のようなものの信憑性も怪しくなる。もっとも、上記は僕が産まれる前の話であり、それから関係がおかしくなったという可能性はあろう。僕が「神戸新聞と神戸大学は仲が悪い」という話を聞いたのは、もちろん僕自身が神戸大学の博士課程でドクターの学生として神戸大学へ通うようになった頃だから、1998年以降のことである。それ以来、実は当社は神戸新聞社と長い付き合いがあるのだが、神戸新聞社へ行く機会が多かった15年ほど前は、雑談などで出身大学を聞かれたりしないか警戒していたものだった(たぶん、尋ねられたら最終学歴としての「関西大学」だと答えたかもしれない)。しかし、何にしても今となっては些事であろう。

さて、この文章に出てくる「高木隊員」(チャカさん)というのは、神戸大学で教えていた高木正孝氏のことである。チャトウィンの紀行文を読んだりした経緯からパタゴニアについて書かれた本を探しているときに、高木氏による『パタゴニア探検記』(岩波新書、1968、「同時代ライブラリー」として再刊されている)を見つけて読み始めると、それは遺著であり、本人は南太平洋へ調査に出た途中に船上から失踪、その後に死亡宣告が出ているという。そして上記の文書は高木氏ご本人と面識があった方々による回顧録であり、「おそらくチャカさんの謎の失踪について話をするのは今回が最後の機会となると思う」と語られている。この文書の中では三省堂の『日本人名辞典』に高木氏の名が出ているというが、他方でウィキペディアにはエントリーがなく、『パタゴニア探検記』も再刊された「同時代ライブラリー」版ですら品切れで古本としてしか手に入らない。たぶん、彼の祖父である高木兼寛氏(東京慈恵会医科大学の創設者で、「横須賀海軍カレー」の発案者、そして感染症説に拘泥していた森鴎外=森林太郎に反対して食事を改善して脚気を予防した「日本疫学の父」としても知られる)の方が後世に名を残すのであろう。とは言え、『パタゴニア探検記』の冒頭を読むだけでも、それから目次を眺めるだけでも、やはり探検に挑む人物というのは何らかの破茶滅茶なところがあるのだろうと感心させられる。

ちなみにだが、高木正孝氏の苗字は岩波新書の奥付によると「たかぎ」となっているが、彼の祖父だと言われる高木兼寛氏の苗字は「たかき」である。確かによくある間違い(本人に確認もとらずに編集者がルビを振る)なのだろうが、一定の考慮に値する事実ではある。

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