Scribble at 2023-10-17 21:09:53 Last modified: 2023-10-18 09:11:41

久しぶりにロバート・ライトの『なぜ今、仏教なのか』が出てきたので、また改めて一読してみようかと思う。でも、特に母親が亡くなった2018年頃から仏教の本を原典なり解説なりと読んできて思うのは、仏教の「強さ」と言えるものがあるなら、それはひとえに現世のあらゆる諸事万事について頓着しないというところにあるのだろうと思う。したがって、ライトの解釈による仏教というのは、どれほど定式化なり解釈としてクールだったりエレガントで都会的な受け入れやすさを表していても、やはりしょせんは1960年代にアメリカで流行したファッション仏教、観光仏教、ヒッピー仏教の IT なり認知科学を使った焼き直しや表装替えにすぎまい。

眼の前で繰り広げられる色々な難事や苦労を眺めて、ブッダは修行の道へと入っていった。そして悟りを開いてから後、そうした俗事や現世でのあらゆる価値や「意味」には何の頓着も示さなくなった。それはつまり、固執することによって苦しみや辛さや不快感や妬みなどなどが生まれるという理解なのであろう。それゆえ、それらを積極的に無視するというよりも更に進んで、最初からなかったかのように過ごすことこそが囚われたところから救済される道だと結論したのではないか。仏教が宗教や信仰ではなく思想だと言われるのは、たぶんそういう経緯にあるのだろう。

しかしそうだとすれば、僕のように色々な拘りを抱えていたり、あれこれと欲求を持っている者からすれば、彼らの「態度」(たぶん敢えてそうしているわけでもないから、「態度」とすら言えまい)は単なる負け惜しみとか痩我慢のようにしか見えなくなる。かといって「いわんや悪人をや」などと逆に救ってもらおうなんていうスケベ根性もない。僕にとっては、思想だろうと信仰だろうと宗教というものは、結局のところ「死ぬのが怖い」という強烈な強迫観念を誤魔化す巧妙な仕掛けや錯覚や気晴らしにすぎないからだ。いわば、僕が哲学者として最も避けたいと願っている自己欺瞞の権化みたいなものである。

とは言え、こうした著作物が流行するのはなぜかと考えてみるに、やはり認知科学の成果としても mindfullness へ到達するには mindlessness であることが求められるというアプローチなり「心」についての理解が求められるということなのだろう。ここ数年で大流行しているのは、要するに心とは脳で起きる神経系の反応から生じる「副作用」、しかも複数の反応から生じた副作用が複雑に組み合わさった組織的な結果であるというものだ。つまり我々には自分の心を統御する方法なんてないし、僕らが自由意志とか自覚とか言っていることの大半は、寧ろ何か別の反応からもたらされる副作用を組み直したディスプレイ・モデルであって、そのディスプレイ・モデルを作り出していくプロセスが「自意識」と呼ばれるものだという。よって、そういうディスプレイ・モデルをどこかで組み立てている主体なんてものはないわけである。たまたまディスプレイ・モデルを作り出している経路とかモデルの構造に連続性なり一貫性があるせいで、それを「自分自身」とか「自意識」だと思いこんでいるだけなのだ。そして、かようなトレンドにうまく適合するのが、或る解釈のもとでプロザックの代わりにアメリカ人が喜んで持て囃している Zen とか仏教なのである。

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