Scribble at 2026-06-14 17:18:05 Last modified: 2026-06-15 09:14:46
そろそろ自分の考えていることをまとめたり整理する必要を感じていて、特に「人類史スケールの保守(思想/主義)」と言ってきた呼称は、たとえば「グローバル保守思想」であるとか、あるいは「資本主義」という言葉にわざと似せて「基本主義」とでも名付けようかと思っている。
「人類史スケールの」という形容を捨てる理由は、もちろん人類史というスケールが昨今の「人新世」というマスコミ用語を臭わせるからだ。人新世という概念は、国際地質科学連合や国際層序委員会といった地質学の研究者のコミュニティでは圧倒的多数で否定されている。その理由は、人類史どころか1950年代からの数十年間という(地質学においては)極端に短い期間を特別扱いしており、着眼点が科学というよりもジャーナリズムであるということ、それから逆に1950年代以前の産業革命などによる人為的な環境負荷を軽視することになるということだ。要するに、人新世なるインチキ用語は人類史のスケールにすら及ばない、戦後の経済発展という政治・経済的な区分を自然科学に持ち込むという愚行に他ならない。よって、東大の左翼学者が経済を語るのに「人新世の資本論」と言うのは構わないが、それが科学として何か根拠のある時代区分であるかのような話をするなら、それはホラ話であるということだ。かようなわけで、僕が展開しようとしている類の保守思想が、この「人新世」などというホラ話と同列にされるのは心外であり不愉快でもある。
これまで述べていることでもお分かりだと思うが、僕の語っている保守主義なり保守思想は、1950年代なんていう、はっきり言ってしょーもない区切りで想定してはおらず、文字通り人類史と言いうる歴史年代のスケールをもつ。よって、認知科学的な能力としての言語だとか社会生活などが生物種として始められたときから、人類であるからには誰もが共通にもつ生物学的な特性に着目する(敢えてフェミニズムを主張しなくても、僕が男女の差別をしない理由は簡単に言えばこれである)。したがって、「社会生物学的な保守主義」とか「認知社会学的な保守思想」などと言ってもいいくらいなのだが、これはこれで一部の人々に誤解をまねくであろう。特に、自然科学は「事実」に関する学問であり、社会科学は「規範」に関する学問であるという、実は(科学)哲学として受け入れがたい偏見を高校の教科書などで刷り込まれた人が多いので、人文・社会科学が扱うテーマに自然科学の基礎を据えるというのは、そういう人たちからすれば、親子丼にチョコアイスを乗せるとか、お好み焼きの上からソースではなくハチミツを塗るといったことと同じ気違い沙汰なのである。
ちなみに、これも社会科学でよく出てくる言葉だが、「後期資本主義」なんていう言い方も、「人新世」と同じく、実質的には loaded language(印象操作のための言葉遣い)であり左翼用語である。つまり、マルクス主義によれば資本主義の次に社会主義なり共産主義がやってくるのだから、もうすぐ終わるはずの現代の資本主義は「後期」であるというわけだ。僕は中学生の頃から、この手のインチキな言葉遣いに辟易させられてきたという経験がある。中学時代の僕は考古学少年だったのだが、歴史学や考古学にかような言葉を弄ぶ手合いが一定の割合でいて、他にも「科学的」という形容詞を自然科学とは殆ど関係のないニュアンス(要するに「弁証法的唯物論の~」という意味)で勝手に使っていたものだった。しかし、こういう言葉のデタラメな使い方は左翼だけの性癖ではなく、右翼でも「伝統」のような言葉を、日本の正確な歴史も学んでいない無知無教養の分際で勝手に使っていたわけである。実際、テレビ局の構成作家風情や自称元皇族が書いているような、ChatGPT のレスポンスにも劣るような「国史」など、われわれ真の保守思想家から見れば紙屑である。