Scribble at 2022-12-24 08:40:49 Last modified: 2022-12-25 09:19:02

この落書きは MD でも PHILSCI.INFO でも僕自身が開発した CMS を使っている。自分で使いやすいように手を入れているため、誰に断るでもなく自由に扱えるという理由で気分がいい。こういう扱い方に慣れてくると、当たり前だがお仕着せのブログ・ホスティングとかツールのユーザ・インターフェイスに強い違和感をもつようになる。

何をどう書くかは自分で決めるものだ。それが本来の「落書き」である。これが「日記」とか「日誌」となれば、やはりそれなりのフォーマットというものがあって、各人が自宅でプライベートに日記を書いていた頃から考えても、やはり買ってきた既製品の日記帳というものには、どこに何を書くのかというフォーマットが決めてある。もちろん、僕のように「落書き」と称している場合は毎日の記録ではないのだから、1日に1本の頻度で書く必要などないわけだ(それに、そもそもそういう意味での日記は『ほぼ日手帳』を使っているので不要だ。なんで他人に日記を見せる必要などあるものか)。落書きなら1日に5本も投稿したっておかしくない。

ブログが流行したのは、もちろん流行させようとした人々の思惑なり、当時のオンライン・サービスのユーザが求めていたものなりが一致したということなのだろう。そして、同じようにブログが衰退しているのも、流行らせようとしているサービスが他に移ったり、ユーザの多くが求めていたものとは違うかもしれないからだろう。ブログのホスティング・サービスを使ってみたり、あるいは受託案件で WordPress をインストールして思うのだが、なんで自分が公に向かって書こうとすることに「タイトル」があって当然だと思ってしまうのか。もうこれ自体が鬱陶しいし面倒臭い。それに、いまでもえんえんと続いている「ソーシャル」という錯覚や幻想によって、タグだのメタ・データだのコメントだの(さすがに「トラックバック」という言葉は聞かくなったが)と、とにかく他人との結びつきを強要する仕組みばかりが発達してゆく。本来は個人的な、それこそ「ツイート(呟き)」にすぎなかったのが、いまでは Twitter で宣戦布告するキチガイ国家まで現れる始末だ。ことほど左様に、子供というのは与える玩具によって幾らでも遊び方を思いつき、そして実行してしまう。我々は、インターネット上のコミュニケーションなりコンピュータを使った生活、いやそれどころか自分たち自身が作り出す「文明」とやらを制御するのに十分なだけの社会や生活の仕組みを整備したり用意できていない可能性があるのに、与えられる玩具だけが次々と変わってゆく感がある。玩具は或る意味で「進化」しているのかもしれないが、果たしてそれを使うことで達成されることが「進展」と言いうるほどのことなのかどうかは、自明ではないにも関わらずだ。

なので、僕が幾つか前の落書きで「iPhone を手にしたサル」と書いたのは、別に喩え話でも何でもないのである。

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