Scribble at 2022-04-04 14:45:17 Last modified: 2022-04-04 14:48:21

広い意味での「哲学」という用法について、僕は特に純潔主義みたいなものはもっていないし支持もしない。純潔主義というのは、つまり「哲学」とは「経営哲学」とか「人生哲学」などという俗人の高慢で超然とした不感症の弁解みたいなものに使うべきでもなければ、老人の自己肯定に使われるべきでもないといった理由で、そうした通俗的な用法を嫌うことだ。でも、言葉の意味や用法は誰にも定義する権利はないし、社会言語学的な観点でも、そして言語の哲学という観点でも、原理的に固定しようがない。固定できるとすれば、それはコミュニケーションの主体である全てのヒトの個体が全く同じ認知能力とデータを処理する、物理的に全く同じ条件に置かれている場合だけであろう。そして、そういうことがありえないのは哲学的に言って自明のことである(もしそういう個体 A と B があれば、A と B は単に「同一人物」であるにすぎない)。そして、同一人物による物理的な条件が同一の場合に行われるコミュニケーションというものは、コミュニケーションの定義(異なる個体どうしでのやりとりが必要条件なのだとすれば)から言って不可能であろう。

しかし、だからといって「何々哲学」という用法をいくらでも使っていいだとか、僕自身が幾らでも使う用意があるなどとは一言も口にしてはいない。僕がそれらの用法を許容するのは、単に無関心だからに過ぎない。要は、凡人による杜撰な理解にもとづく「何とか哲学」という言葉の用法など、何億人が何千年と口にしようがしまいが、哲学的に言って何の価値もないから、どうでもよいだけのことなのだ。自由とはまさにそういう茫漠とした世界に取り残されるということであり、それに耐えられない者がたやすく「哲学」などと言ったところで、ただ単にゼロを際限なく足し算しているにすぎず、人類の叡智に何の追加もしていないのである。

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