Scribble at 2023-12-16 09:21:13 Last modified: 2023-12-16 11:47:31

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Taskade を使って、いまこんな具合にマインド・マップで論点を組み上げたり整理している。元になるアウトラインは ChatGPT が整理してくれるのだが、もちろんそのまま使うわけではない。その決定的な理由は、あるていど込み入った議論を展開させると、必ず堂々巡りを始めるからだ。たとえば、「科学哲学を学ぶ意義はなんですか」と質問すると、「科学的知識を理解することに役立つ」というような回答が出てくる(複数の回答を並べることも多いが、その一つにこういう回答が含まれている)。いわく、自然法則や因果関係といった科学的知識の基礎を理解することに役立つというわけだ。では、「どうして科学哲学を学ぶと科学的知識の基礎を理解できるのか」と質問したらどうなるか。答えは、「科学哲学は、科学の基本概念や原理、論理を明解にし、科学的方法の限界と可能性を探求する」からだという。でも、これは科学的知識の基礎を科学哲学において理解するとはどういうことであるかという定義でしかない。つまり、記述的な内容と、それからオンラインの文書から得た可能性についての記述的な内容は答えられるが、normative な議論はできないということだ。

これは、人どうしの議論でもよくあるように、建前を持ち出して「本来はこうあるべきですよね」と言っては、現実にそうなっていない色々な事情を無視して、マウンティングしていい気になってる小僧みたいなものだ。もちろん、それはむかしから「若者の特権」などと小説やアニメのセリフでも知られてきたわけだが、実際には大人がそんなセリフを書いていることでも分かるように、若者が理想論を口にするというのは多くの共同体や組織では想定内であって、逆に理想論を語る人々こそ狂言回しでしかなかったりする。よって、「論破」と言って喜んでいても、結局は世の中は何にも良くなっていないことを見れば明らかなように、口先だけで言い負かしても人や社会や制度は変わったりしないのだということを自覚させる通過儀礼のようなものである。

真に人の心や世の中の仕組みを少しでも動かすには、手持ちの建前を押し通すだけでは不十分である。教科書、とりわけ哲学の教科書を書くのであれば、いま学界はこうなっているとか業績としてこういうものがあるとか、あるいは現在の議論ではこういうことが可能だと言われているなどという、三流のライターが書くような文章を掲載しているだけでは不十分である。それこそ、学生や素人が勝手に自分で ChatGPT に尋ねて済むようなことしか書けないのであれば、最初から何も書かないほうが資源の節約というものであろう。もともと僕は教科書や書物で「哲学すること」を教えたり動機づけることはできないと考えているが(それが出来ると思い込んでいるのは、思想オタクや業界人だけであろう)、少なくとも科学哲学の教科書を書くという作業で哲学することを一例として提供することはできるだろうと思う。そして、そこで重要なのは、やはり normative でウェブ検索では見つけられない発想や議論なのである。

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