Scribble at 2020-08-28 10:43:05 Last modified: 2020-08-28 14:06:29

これはネグロポンテやニコラス・カーのような古臭いテクノ評論家がものを書いていた時代から言われていたことだが、いわゆる "daily me" のような高度に発達したパーソナライゼーションが進行すると、人々は自分の《セカイ》で起きることにしか関心がなくなる。だって、そこが「世界」である以上、《セカイ》の外に何か他の《世界》があるのかどうかを想像できたり、あるいは想像するインセンティブをもつ人は、実際のところ多くないからだ(言葉と括弧の使い分けに注意)。

しかるに、なるべく自分の視野を広く持つべきだという方針のもとに、昔の生活に置き換えて言えば、新聞を何誌も購読してる老人みたいなことをする人がいる。それこそ、産経新聞のサイトも毎日新聞のサイトも朝日新聞のサイトも見るし、『サイゾー』やら『週プレ』のグラビア・コーナーまでご丁寧に(あるいは個人的な関心で)しっかり見ているというわけだ。

まず原理的な問題として、このように偏執的なことをやりだすときりがなくなる。なんとなれば、そういう方針をもっていて、誰かに「おまえは偏っている」と言われることに恐怖をもつような人なら、その人物はどうして日本語のサイトしか見ないのか。Newsweek や The New York Times、あるいはフランス語やドイツ語やスワヒリ語のニューズ・サイトも見るべきだろう。しかし、そんなことをする人は殆どいないし、事実として不可能でもある。かつて舛添要一は7か国語を話せると豪語していたのは有名だし、他にもライターとかで何か国語も話せるという人はたくさんいるが、国連加盟国すべての言語を読み書きできる人間はいまい。そして、そんなことをする必要なんて(仮にできる能力がヒトにあったとしても)ないのだ。

こういう強迫観念は、古典解釈学における「全体像症候群」と僕が呼んでいるものに近い。全体像症候群というのは、プラトンであれデカルトであれ、とにかく彼らに関する情報をすべて知り、そして彼らについて考えられる全ての論点とか観点から議論しない限りは、「誰それの『全体像』を理解したとは言えない」などと言っては、哲学者としての自分の無能さを情報量や、あるいは出版社から許容された原稿量という制約に転嫁する手合いのレトリックを指す。そして最初の話と同様に、僕は哲学者として、こんな筋違いの目標を勝手に設定して、他人の成果を「一面しかとらえていない」だの「部分的な成果にとどまる」だのと評する愚劣な連中を、はやく哲学から放逐したいと思っている。

結局、最初の偏執的な「偏り恐怖症」と言うべき人が思い込みで求めているのは、「世界」についてのあらゆることを知る超人のような存在であり、後者の「全体像症候群」が求めているのは、簡単に言えば古典の著者であるプラトンやカントとの《シンクロ》ないし《同一化》という、クオリア・ゲームである。どちらにしても、成就したかどうかの基準は、言葉の上では客観的に見えるが、実は主観的どころか主観としても明確な基準が存在しないクオリアにすぎない。よって、そんなものは求めること自体が哲学的に言って最悪の錯覚なのだ。

こういうことは、所定のリサーチ・プログラムにおいて必要とする範囲で求めることが適正である。少なくとも、《仕事》としての学術研究というものはそうあるべきだし、大半が実質的には凡庸でしかない現今の学術研究者にとっては、そうする他にあるまい。つまり、自分がやれるかやりたい範囲でやればいいのであって、それを超える必要があるかどうかも、自分で決めたらよいのである。他人が勝手に「世界」だ「全体像」だと、論理的に可能というだけの目標を設定して他人に強いるというのは、他人の成果を過小評価させるための(自覚があろうとなかろうと)イカサマにすぎないのである。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook