Scribble at 2020-08-04 13:25:09 Last modified: 2020-08-04 13:27:38

ともかく家の外へむやみに出ないということを推奨するなら、宿泊業界や外食業界あるいは公共交通機関も利用するべきはないという理屈になる。そして、WHO から勧告されているように特効薬が存在しない可能性があるなら、われわれの前に置かれている選択は、或るていどの感染事例を許容しつつ従来の生活や活動を復旧させるか、あるいは宿泊や外食といった特定産業を社会的に見放すことであろう。そもそも、この世界においてホテル業が存在《しなければならぬ》必然性などないのだから、社会として必要ないと判断すれば不要な産業は消滅するのが道理だ。これまでの人類の歴史を振り返っても、電算写植での入力業やワープロ入力代行業や貸本業は普及してから30年前後でほぼ消滅したし、奴隷商人は(実は日本にも風俗関連でいるとは言われているが)殆どいなくなったし、公に覚醒剤を販売する事業者が税務署に登記された事例はない筈だ。今後も、ゲーム開発やウェブ制作といった業界がいつまでも存続する保証などないし、そもそも大学のようなものですら、産業としての存続を危ぶまれるようになっているくらいだ。大半の人々に外食する理由も意欲もなくなれば、店として何千何万の店舗があろうと人は寄り付かないわけで、利用しない消費者に文句を言う資格は誰にもないし、そういう意味では社会的な効用がない産業を国が保護する責任もない。単に、そういう産業が崩壊するという前提で失業者を保護する責任があるだけだ。

つまり、リバタリアンというのは経済活動を「再開して経済を回す」ということばかり偏って強調するのだが、特定の業種を見放して新しいニーズに対応する業種を育成するという可能性については口をつぐむ傾向がある。なぜなら、そうういう業種が起きると既得権益を持ちながら「自由」を口にしている、安全な立場で梯子を外すしか能がない愚劣なリバタリアンどもが不利になるかもしれないからだ。つまり、ああした連中は自分にとって都合がいい状況での「自由」しか口にしないという意味では、まったく持ってただの保守主義者なのである。

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