Scribble at 2021-07-12 16:57:25 Last modified: 2021-07-12 17:16:06

ネットが普及して誰でも公に自分の文章を公開できるようになると、それだけ他の人が参考にできるリソースが増えると期待できる場合もあるが、学術研究の成果については難しいと言える。もちろん、アマチュアが昔から積極的に参加していたような分野、たとえば考古学とか天文学については幾らかの期待はできるし、実際に有益な考察からクズにいたるまで色々な文章がオンラインで見つかる。しかし、もともと多くの人々が関心を持たない分野については大して変わりないし、「関心がある」と口にする人はいても、哲学のようにオンラインでアマチュアが御大層に「執筆」なんてしてるブログ記事の大半は、要するに古典の単なる読書感想文にすぎないか、crank のセカイ系ポエムにすぎない。もちろん、他方で、一定の水準で公開されている正式な学術研究の成果へ手軽にアクセスできるのも事実である。しかもその手軽さが経済的なコストや労力といったコストがかからないだけではなく、いちどに大量のリソースへアクセスできるという物量という点でも、現代は過去と比べて何事かを学ぶ環境としては格段に向上していると言ってよいだろう。

もともとがアマチュアなり crank の中からまともな成果を拾い上げることが実務として難しく、また学術に必要な権威の源泉という観点からも安易に期待するべきでもないという理由から言って、ネットが普及しようがしまいが、研究者コミュニティが信頼する基準を満たしていない人物の成果を何の根拠もなく〈もう一つのリソース〉だと言って気軽に並べるのは、反抗期の子供と同じような軽率にすぎない。(同じ議論として、当サイトでは「シュナイアーの法則」という記事を公開しているので一読されたい。)もちろん、僕らアマチュアがプロパーを超える成果を出す可能性はゼロではないにしても、「独立研究者」などといった自意識プレイのフレーズを振り回しながら〈もう一つの権威〉を自力で打ち立てられると思い込んだり、あるいはそういう権威があるかのごとくマスコミ向けのさまざまなパフォーマンスを繰り返すのは、醜悪としか言いようがない。

もちろん、僕はこういうことを単純な「権威主義」から言っているわけではない。しょせん「権威」とはわれわれが許容しなければ実効性に欠ける人間関係、あるいは社会心理的な力だからだ。この点で、個々人が受け入れるか否かに関わらず力をもつ「権力」とは異なる。また、しょせん我々のようなアマチュアに成果は出せないのだからプロパーに責任を押し付けておけばよいという「敗北主義」を唱えているわけでもない。実際、僕は(願わくは少数の)プロパーよりも研究能力なり実務において凌駕している自信がある。しかし、現実にアマチュアとプロパーとの対比という大づかみの話をするなら、これまでの歴史的な経緯から言って(アマチュアの貢献という事実が色々な分野に残されていることくらい、科学史の学位を持ってなくても知っているが)、上記のように言わざるをえない。権威の基準を簡単に相対化したり、序列を安易に転倒させたり並置させるような議論は、アマチュアと大差ない凡人の集まりであるマスコミや出版業界あるいは読書家なり素人には好評を得やすいが、事の本質から言って有害でしかないと思う。

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