Scribble at 2021-07-13 10:14:02 Last modified: 2021-07-13 12:53:58

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In the age of Marie Kondo, it would be easy to see all this stuff as a moral failing, the sign of a fatally materialist worldview. In time I, too, may come to recognize our rented 10x10 storage unit, this receptacle for emotional need, as an exercise in self-delusion. But somehow I don’t think that will happen. I think I’ll always remember what it meant this year to try to save whatever I could save from a time when the world kept taking and taking and taking.

You Can’t Take It With You, but You Can Put It in Storage

上記の文章に出てくる Marie Kondo とは誰なのだろうと思ったら、いまはアメリカに拠点を移して片付けのコンサルタントをやっている人物がいて、それなりに有名なのだそうな。さきほど観ていた NHK の「あさイチ」という番組にも、この手の「○○研究家」と称するアマチュアの有閑マダムが続々と登場するわけだが、しかし考えてもみれば冷笑するべき話でもない。なぜなら、彼女らが関わっている話題の大半は、そもそもアカデミズムでは「家政学」とか「栄養学」などと呼ばれて、社会学や女性学のような分野からも等閑視されてきたからである。たとえば、ジェンダーだ何だと叫び声だけは大きいが、いったい日本の女性学や社会学のプロパーで栄養士の資格があるとか、家の収納(を研究すること)について成果を上げている人物がどれほどいようか。多くの(とりわけ女性の)日本の社会学者というのは AV 女優の話かジュディス・バトラーの話をしているにすぎず、それらの話題を最初から自分たちで〈両極端の話題〉だと断定してコミットしているだけではないのか。

それはそうと、上記の記事は近藤麻理恵(Marie Kondo)氏のような、日本で言えば「断捨離ブーム」、アメリカでは minimalism を牽引したのと同じ感性に違和感を申し立てているわけだが、日本で、そして僕自身が同じことをやれるだろうかと考えると、なかなか難しい。いま僕の実家は歩いていけるほど近くにあるわけだが、独りで住んでいる父親が亡くなった後は家財道具一式を処分することになるのだろう。そして、中には僕が実家に置いてある大量の本も含まれていて、これらは僕自身の持ち物だからいいとしても、両親あるいは祖父母のものもあるかもしれない物品をどうするかは、たぶん親が亡くなっていく年代の人々にとっては共通の課題である。親が亡くなったあとに広大な家屋敷へ自分たちが入るなんて境遇の人は、余程の旧家か皇族でもない限り、殆どいまい(そういや、皇族の場合は親の持ち物とかはどう扱っているのだろう)。

上記の記事で書かれているように、もし親の残した物品を保管したいというなら、現実的な手立てとしては、(1) 倉庫を借りる、(2) 収納サービスを利用する、(3) 自分か親族の家に庭があれば収納庫を増築するくらいだろう。どれもコストのかかる話だが、(3), (1), (2) の順番で選びたいと思う筈だ。僕らの住んでいるところの周辺にも、既存のテナント・ビルに手を入れて運営されている、「トランクルーム」と称するサービスが色々あるようだが、正直言って事業継続性という点で全く信用できないし、現に3年もすれば知らないうちに無くなっていることが多い。家の増改築などで数ヶ月ていどの保管に利用するならともかく、5年以上の長期間に渡って荷物を保管する用途では、トランクルームなどというサービスは全く信用に値しない。やはり三井倉庫とか寺田倉庫とか上組とか既存の倉庫事業者にこそ、荷物だけでなく圧倒的な信頼を置けるというものだ。恐らくコストが最も安くなるのは、自宅や親族の家に倉庫を建てることだろう。しかし、神奈川とか神戸といった僻地ですら多くの家庭がマンションで暮らしている現代にあっては、「庭」というアイデアを提案すること自体がたいていの場合に現実的ではない。そして、家あるいは親の家財道具を保管したいという望みは、何も東京23区内や大阪市内で庭に倉庫が建てられる一部の金持ちだけが抱くものでもあるまい(もちろん、そういう望みを実際にかなえられるのが一部の金持ちだけであるのは事実だし、それの是非を論じるつもりはない)。

こう言っては身も蓋もないが、記事の著者が親の家財道具を残すべきか否かを、コストや土地という現実的で切実な与件と切り離したまま、何か高尚な思想的散文のように扱えるのは(The New York Times には、この手のインテリ雑談が多いためか、平均して教育程度の低い右翼やネオリベ支持者の白人には評判が悪い)、つまるところアメリカは北朝鮮や中国やロシアやイランが100基ていどの核兵器をランダムに打ち込むだけでは街に着弾しないくらい土地が余っているからにすぎない。そして、そういう事情もあって倉庫のサービスを利用するコストも安いし、日本のマンションやアパートのような共同住宅に住んでいるのは貧乏学生あるいはニューヨークで暮らす頭のおかしい芸術家とか黒人くらいのもの(だと思っている)なので、大多数の家庭は自宅に倉庫を増築しようと思えばできるだろうというくらいの思い込み、つまり悪意はないがかなり迂闊な認識で物事を論じているのではないか(こう言っては気の毒だが、著者のように南部、白人、女性、高等教育修了者、そしてたぶん金持ちという典型的な要素が重なると、そう言わざるをえない)。

そして、それに輪をかけて、NYT の記事のコメントなんて読んでる人はそうそういないと思うが、900件近くもついているコメントの一部を眺めているだけでも、この記事には賛同するものが多くて、ややウンザリさせられる。ただし、僕は Marie Kondo と共に「割り切って捨てよ」と言いたいわけではない。残せるものなら残したいものはあるが、日本に限らずたいていの世界中の家庭では、現実に先祖の遺品を全て残して引き継ぐわけにはいかない(それに、「引き『継ぐ』」とは言っても、実際問題として家系の断絶する割合は意外に高く、一節では明治時代にあった家の半分近くが子孫を残さずに絶えたというし、遺品を子孫のためと称するのは自己欺瞞である)。引き継ぐにしても、それは全てでなくてもいいと思うし、現実に全てを引き継ぐわけにはいかないなら、何を残すべきか考えることも後の世代の責任だろうと思うだけだ。

それは、学問についても同じことが言える。全ての学術書や論文あるいは著名な研究者の遺稿や日記といったリソースを保存したり継承することには大きな意義があろう。それゆえ、既存の遺稿や日記を電子化することだけではなく、そもそも研究者本人が原稿をパソコンで作成するようになった昨今、かなりコストも手間も軽減されるようになっている。だが、「全て」というわけにはいかない。僕は遺稿を誰かに保管してもらうような人物ではないが、論説や考察のアイデアを書き溜めているメモ帳だとか、修士論文を作成するのに使った読書カードなどは自宅に保管してあり、これをどこかへ保管したり電子化するかどうかは、僕が決める。たぶん電子化もしないし誰かに保管を委託したりもせず、僕が死んだら廃棄処分となろう。しかし、これは僕のようなアマチュアに限らず、大学やシンクタンクの研究者であっても、その多くは同じ結果となる筈だ。失礼ながら、既に亡くなった恩師の遺稿とか蔵書が大学に寄贈されたなんて話は聞かないし、ご遺族がメモとか手稿を大切に自宅で保管し続けられたとして、その存在がどうやって他人にわかろう。他人が知り得ないプライベートな遺品の保管であれば、将来のことは分からないが、ご遺族も科学哲学や哲学の研究者であればともかく、たいていの場合において学術のリソースとしては消失したに等しい。

こうして、現実に仕方なく失われてゆくリソースもあろう。また著作物であっても、たとえば研究者自身による自費出版として知人に配られたにすぎないものだったり、公刊された著作物であっても、昨今は特に電子書籍の技術的なノウハウしか知らない小僧が適当に起業した自称出版社というゴロツキが多く、国立国会図書館へ収めない事業者もいると聞く(言っておくが、公刊された著作物を国立国会図書館へ収めないのは法令違反である)。もちろん、そんな事業者の発行する著作物に人類の叡智を一歩でも前進させる力など有るわけもないが、そうした些事が至るところで起きているのは事実だ。よって、そうした著作物が将来に渡っても利用できるかどうかは、それらをたまたま手にした人物が書籍なりデータを残すかどうかにかかっている場合だってあろう。

更に、これらに加えてリソースとしての「情報」は他にも色々あり、その中でも「オーラル・ヒストリー」として収集が続けられている音声データの保存や継承といったアプローチも考慮できるだろう。オーラル・ヒストリーは当事者に対するインタビューという形式で録音されている場合が多いけれど、そこまでいかなくても、誰かから聞いた話、とりわけ恩師からの助言といった些細な情報だって保存するべき資料の一つに数えて何が悪いのかと言いうる。しかし、これらの多くは聞いた方が日記やら何かに書き留めでもしない限りは情報として永久に失われてしまう。ここまで保存したり継承するべきだと言い出してしまえば、世界中の人達がメモ魔になるか、あるいはあらゆる場所で全ての人物の発言を録画しなくてはならなくなる。

もちろん物品として現に手元にある何かが、誰かの発言を思い出すきっかけになることもあるだろうから、残すこと自体を無駄だの何のと否定するつもりはないが、何でもかんでも残すわけにはいかないという現実があるし、原理的にも全てを残すことは不可能であろう(それに、どれほど僕らが親や恩師の発言を記憶していても、思い出せなければ保存しようがない。更に、どれだけ思い出せば〈全て思い出したことになる〉のかという基準は誰にも分からない)。結局のところ、われわれはセンチメンタリズムだろうと、著者が嫌う "logical thing" だろうと、どこかで必ず選択しなくてはならないのだ。

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