Scribble at 2023-07-16 20:58:32 Last modified: unmodified

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ドイツ文学を修めてニーチェなどの研究をした西尾幹二という人物がいる。もう若い人は殆ど知らないと思うのだが、一時期はテレビ朝日の『朝まで生テレビ』とかにも出ていて、いちおう「保守派」の論客とされていた。知らなかったのだが、上記のブログ記事を読むと施設に入っておられるらしい。5年前に癌の手術も受けたと書かれている。

ニーチェに接している人物ではあるため、もちろんその辺の安物の右翼とかインチキな伝統馬鹿とも一線を画しているのは違いないけれど、やはり彼の文章には昔から「西洋」という観念に対するコンプレックスのようなものを感じて、痛々しい印象を持っていた。そうこうして、いつのまにか弟子のようなものを抱えるようになったらしいのだが、何やらエピゴーネンたちのあいだで下らない揉め事が起きているようだ。これまた昔からよくあることで、誰が「最も近しい」弟子であるかという、多くの宗教でも司祭だの教皇だの本座だの律師だのと、本質的にはどうでもいいことで争い、揉める。幸いにして、我が国のような講壇哲学の世界では(昨今のパフォーマンスしか能が無いプロパーを見ていると、「講談哲学」と書いた方が実情にあっている気もするが)、そういう下らない話題は殆ど聞いたことがない。たとえば、僕は一部の人々からは「竹尾治一郎の最後の弟子」だと言われたり、あるいは「森匡史の最後の弟子」だと言われたりするが、先生方も含めて僕も思っているように、そんなマスコミ的な名目に何の意味も無いことは明らかだ。それは彼らが namedropping に値しないからではなく、もちろん哲学的に言って意味がないからである。われわれ哲学者にとって意味があるのは、殆ど同語反復だが、哲学的に言って意味があることしかないのだ。

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