Scribble at 2020-06-08 10:33:23 Last modified: unmodified

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Zettelkasten note-taking in 10 minutes

nota taking は、critical reading などとともに昔からの話題だ。それこそ、梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』(1969年)とか、渡部昇一さんの『知的生活の方法』(1976年)とかは有名だったが、現在でも東大式勉強法だとか京大式カードがどうしたとか、その手のコンプレックスに訴える商法で数々の・・・ロクでもない読み物が溢れかえっている。また、上記の写真は僕が使ってきたカードの事例(大学へ入るまで使っていたカードと、幾つかの改良が必要だと感じて父親の勤めていた印刷会社で安く印刷してもらったオリジナルのカード)だが、リンクした記事のように、Mind Map や CVS のアイデアを組み合わせた concept mapping などのツールをいろいろと提案している人たちがいる。

しかし、どう考えても多くの人たちが有効に情報や知識を活用できていない最大の理由は、自分で調べないこと、自分で考えないこと、そして自分で本を読まないことにある。それを前提に本の読み方だのノートの取り方だの情報整理のコツだのを並べ立ててみたところで、大半の凡人にとっては想像上のインテリ生活をシミュレートしているにすぎず、現実には大多数の人々が実行しない。それだけのことだ。僕は、ふだんから「凡人」と言っているが、何度も言うように侮蔑しているとは限らない。僕らは誰でも(もちろんハーヴァードの名誉教授だろうとノベール賞をもらっていようと国家元首でも資産が何千億円あろうと)面倒なことは煩わしいし遠ざけたい。しかし、凡人の中でも結果を出す者とそうでない者の最大の違いは、どう考えてもやるべきことを実際にやるかどうかなのだ。

したがって、身も蓋もないことを言えば、僕が凡人の一人でありながら国公立大学の博士課程に進んだのは、何も天才だったからでもなければ金持ちだったからでもなく、ドイツ語を3か月で 3,000 語だけ覚えるとか、Newsweek の記事を毎日1つずつ読むとか、哲学の論文をデタラメに選んで1日1本読むとか、そういう《無機質で》《人間性のかけらもなく》、《仕事のように単調な》勉強を続けたからに他ならない。それを必要だと思ってやったからだ。必要を感じずに勉強しなかったときは、母校の高校では数学の定期テストで二桁の点数をとったことがないほどだった(とは言えストレートで東大に行った同級生たちも含めてクラスの平均点が20点という難易度の試験だったし、僕も参考書ではなく雑誌の方の『大学への数学』を愛読していた生徒だったが)。したがって、この手の話は実際にそのような勉強なり作業をした人にしか実のところ有効とは言えないのであって、「アメリカでは毎週のように大量の書物や論文を読まされて数十ページのリポートを書かなくてはいけない」などと、わかったふうなことをどれほど説明して見せたところで、大半の人にとっては《やった後のこと》を皮算用させるだけの意味しかない。全ての想像は、「もしきちんと読書したら」とか「もし一定の見識を得る勉強をすれば」といった、実際には多くの人が実行しない留保条件があるのだ。

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