Scribble at 2023-11-15 17:09:05 Last modified: 2023-11-15 17:11:58

日本では大して翻訳が売れていないらしいが(あの貧相な装丁ではねぇ)、原著ではよく売れたという、人生が4,000週間しかないという本がある。かたや、人生の残りが1日しかなければ何をするかといったテーマで語るような本もある。どちらにしても根拠のない、イージーな楽観主義や悲観主義のようにも思えるが、もちろん両者とも有限な人生を充実させようという発想で書かれている点に違いはない。

日本では、こうした発想なり人生観をアメリカ人のようにキリスト教と切り離して考えられるので、簡単に言えばデタラメな応用とか要約とか飛躍した解釈をする人が出てくる。アメリカでそういう、当人がもともと抱いているイデオロギーに都合よく解釈を捻じ曲げるような議論が受け入れられにくい(あるいは端的に無視される)のは、議論の枠組みとして共通の宗教的な信念だとか考え方の習慣があるからだ。したがって、本に書いてある内容からすればどうとでも言えるようなことでも、キリスト教という枠を超えてしまうと多くの人々に強い違和感を与える。でも、日本では仏教や神道にそういう強力な枠組みを庶民に根付かせることはできなかったし、たぶんそれをやろうともしなかったので、論理的に可能であれば色々な解釈が横行することになる。

僕は、こういう傾向は思想や宗教や学術についても、とりわけ人文・社会科学では強みになると思っているのだけれど、なかなか自覚して活用しようとする人は少ないと思う。寧ろ、その自由さを単に享受して好き勝手なことを考えたり言っているだけというのが、日本の人文や社会科学であるように思える。だから、いつまで経っても底の浅い議論しかできないのではないかとも思う。やはり、良かれ悪しかれ歴史の経緯として宗教という、強力で、しかも権力をもっていた思考や習慣との対比や競合として自分自身の考えを打ち立てるという経験がないといけないんじゃないか。クリスチャンであっても、そのあたりは子供の頃から日曜礼拝で聴く説教に疑問を持つという経験を通じて、距離感をとるようになるのであれ、あるいは更に強い信仰をもつのであれ、対峙する経緯が多くの人にあるのだ。

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